深知留が研究室に顔を出したのは、池に落ちた翌々週の月曜日だった。計算上、丸々と一週間は休んでいたことになる。
 研究室に関しては、環が親戚を装って『病欠』の連絡を入れておいてくれたおかげで、誰も怪しむことは無かったようだ。
「それで? 引き受けたのか? 偽恋人」
「ん……まぁ、そんなところ」
 屋上でお昼ご飯のサンドイッチを頬張りながら、深知留は蒼に今日に至るまでの事情を順を追って説明していた。
 そもそも、深知留が池に落ちて入院している間、蒼は彼女に別件で連絡を取ろうとしたらしく、いつまで経っても何も反応がないことに随分と心配を掛けたようだ。
 退院後、膨大な量のメールに気づいた深知留が驚いて電話をかけると『捜索願を出すところだった』と、蒼に激しく怒鳴り飛ばされた。
 蒼は相当心配をしてくれたようで研究室にも自宅にも訪れてくれたとのことだ。それも、研究室では病欠なのに、自宅に行っても深知留はいない……彼が真剣に捜索願を考えたのも無理はない。
『あと数分電話が遅かったら、冗談抜きで警察に行っていた』
 蒼はそう言った。
 その時に、後できちんと事情を説明しろと言われたのだ。
「お前、お人好しにも程があるだろう」
 一通りの説明を聞き終えた蒼いはため息混じりに言った。
「だって、環さん困ってるって言うし……。それに、わたしが肺炎起こして入院した時もずっとそばにいてくれたんだよ? だから恩返しもしたいな、って……思って」
 深知留の言葉は最後の方は消え入りそうだった。
「大体、諸悪の根源は奴だろう? そばにいることくらい当たり前だと思うが」
「だって環さんは仕事だって忙しかったはずなのに、それも全部断ってそばにいてくれたし」
 バッサリと切り捨てようとした蒼に深知留はすかさず環を庇う。
「それで仕事に行ったら人としてどうかと思うぞ」
「だから、そばにいてくれたってば。寝ないでずっと、病院で付き添っててくれたの!」
 変わらず文句を付ける蒼に深知留は声を荒げる。
「あーはいはい、分かった分かった。ムキになるなよ」
「別にムキになんて……。ただ……」
 深知留は言いかけて口籠もる。
「ただ? 何?」
「……何でもない」
 深知留はそのまま口を噤んでしまった。
(わたし……なんでムキになって環さん庇ってるんだろ?)
 深知留は自分で自分の行動が理解出来なかった。
「それで、十四日を終えたらお前の役目は終わりなのか?」
 蒼は言葉を飲み込んでしまった深知留に新たな問いを投げかける。
「一応、そういう約束」
 今の時点で、深知留の体調的に特別不都合があるわけはないので、例のパーティーは当初の予定通り十四日に開催となった。
 環は『ささやかな』と言っていたが、蒼の元にも既に招待状が行っているらしく政財界の要人を招待したそれなりの規模のパーティーになりそうであった。
「じゃあ龍菱の家で暮らすのも十四日までだろう? 深知留、その後はどうするつもりだ? 多英子おばさんもいないわけだし、その翌々日はお前の誕生日……この時期に『独り』は無理だろう?」
「…………」
 蒼の問いかけに深知留は答えなかった。
「深知留さえ良ければ、うちに来たらどうだ? どうせ全員見知った者たちばかりだし。実は由利亜にももう事情は話してあるんだ。……どうする?」
 蒼は深知留の様子をうかがうように尋ねる。
 そんな蒼に対し、深知留は首を横に振った。
「大丈夫。バイトしようと思ってるし。バイトもね、今の時期なら結構あるの。クリスマスと年末商戦に向けてってところ? いくつか掛け持ちして忙しくしてたらあっという間に過ぎるでしょう。それに、本当に駄目なのはたった一日だけの話だから……」
 安心させようと笑ってみせる深知留に、蒼は「気が変わったらいつでも言えよ」と言った。








「なんかもうドラマみたいじゃないですかぁ!!」
 深知留の身に起こった出来事を聞いていた真尋は、実験室で実験をする深知留の隣に腰掛け、部屋中に響き渡るような声を出した。
 深知留はすかさず「声が大きい!」と警告する。
 実のところ深知留は真尋に話すつもりなど無かったのに、真尋は深知留が蒼と別れて帰ってきた後、一人になるのを見計らって近寄ってきたのだ。
 そして開口一番、
『それで、何で龍菱さんが深知留さんの病欠電話してきたんですか?』
 と意味深な笑みを浮かべながら言った。
 環が研究室にかけた電話を取ったのは運悪く真尋だったようで、環が『天音の身内です』と言ったにも関わらず、彼の声を知っていた真尋は電話口の人物を環だと認識したようだ。
 それでも、深知留は何とかはぐらかそうと試みたが、真尋の妄想を暴走させるだけだった。このままでは変な噂を流されかねないと判断した深知留は仕方なしに真尋に伝えたのだ。
『環さんとのデート中にアクシデントで池に落ちて、そのまま病院に運ばれたわたしを環さんが看病してくれたの』
 と。
 詳しいことは真尋に言うと厄介なので、深知留は事実を大幅に端折って伝えた。別に嘘は言っていない、と言い訳しながら。
「じゃあ今度は、看病して貰ったお礼に、って理由で会いましょう!」
「あー、そうねぇ……」
(これで、偽恋人やってます、とか、一緒に暮らしてますとか言ったら……この子絶叫するだろうな)
 相変わらずやる気満々の調子で息巻く真尋に、深知留は形ばかりの相槌を打ちながら恐らく興奮状態に陥るであろう真尋を想像していた。
「ほらぁ! 深知留さんもっとやる気出しましょうよ! チャンス逃したらどうするんですかぁ?」
「環さん、忙しい人だしそんなに会えないの」
 深知留は言いながら小さくため息を吐く。
 これもまた嘘は吐いていない。
 事実、環は深知留が退院した晩にゆっくりと一緒に過ごしただけで、それ以来彼の顔さえ見ていない。
 身の回りを世話してくれるメイドに深知留が尋ねてみたところ、環は仕事が忙しく、着替えを取りに戻るだけで連日会社に泊まっているとのことだった。
 メイドの言うように、確かに環が帰ってきている痕跡は確かにある。深知留が寝て起きると机の上のものの配置が換わっていることがよくあったので、それで分かった。
 しかし、環をそこまで多忙にさせてしまった原因が自分にあると思っていた深知留は、少し重い気持ちだった。
(環さん、大丈夫かな? 体調崩してないかな? ……心配、だな……)
「会えなくて寂しいですか?」
「そりゃもちろん……」
 すっかり考え事に没頭していた深知留は真尋の問いに無意識に答えてしまった。
 ハッと気が付いて深知留が顔を上げた時には、にんまりと嬉しそうに笑う真尋の姿がそこにある。
「いや、やっぱり寂しくないから!! 全く以てないから!! 言葉のあやだから!!」
 深知留はすぐさま否定をしたが、真尋がそんなものを受け付けるわけがない。
「深知留さん、龍菱さんのこと……好きになりました?」
「…………なりません!!」
 深知留はその顔を真っ赤にして答える。
「強情ですねぇ。じゃあ、龍菱さんのこと、嫌い、ですか?」
「……そりゃあ、まぁ嫌いってことは……ないけど」
 渋々答える深知留に真尋は満足そうな笑みを見せる。
「まぁ百歩譲って、呼称が“龍菱さん”から“環さん”に変わるくらいは愛情芽生えたんじゃないですか?」
「それは別に……深い意味なんて……」
 深知留は言いかけて止めた。
(恋人、っていう設定上、名前で呼ぶように言われただけ。深い意味なんて、そんなの……)
 深知留は真尋には言えない台詞を飲み込む。
 そして、
「深い意味なんて、無いから……」
 改めて言い直すと、なぜか深知留の心はツキンと痛んだ。
 そう、環が『深知留』と呼ぶのも、ずっとそばに付き添っていてくれたのも深知留が偽恋人であるからで、それ以上の意味はない。
 そんなこと初めから分かっていたことで、深知留だって何の期待もしていない。それなのに、それをただ言葉にしただけで、深知留はなんだか酷く寂しい気持ちになった。
 次第に表情を暗くする深知留を、真尋は興味深そうに見つめていた。
(既に、恋患いね……。本人に自覚があるかは謎だけど)