「……ん?」
 その晩、深知留はふと目を覚ました。目の前には今ではもう見慣れた美術彫刻のような柔らかい環の笑顔があった。
「ごめん、起こしたかい? そっと運んだつもりだったんだけど」
 気づけば深知留は、ベッドの上にいる。
 つい先ほどまではソファーで起きていたはずなのに、深知留はいつの間にか寝てしまったようだった。同じく、先ほどまでは部屋の照明が煌々と付いていたのに、それは消え、今はベッドサイドにある手元灯が一つ付いているだけだ。
「すみません。……わたしまた寝ちゃって……それに、運んでもらって。……環さん、今日も遅いんですね」
 サイドテーブルに置いてある時計は既に深夜一時近くを指している。
「少し仕事に手間取ってね。それより、また俺を待ってた? 先に寝ているように言っただろう? 電気を付けたまま居所寝をして体調を崩したらどうするつもりだ」
 少しきつめに言われた深知留はシュンとその身を縮める。
 退院した翌日から二日ほど、深知留は今日のように起きて環を待っていた。どうしても眠い時はソファーで毛布にくるまってまどろみながらも環を待っていた。
 忙しく働いている人間より先にフカフカのベッドでは寝られない……それが、自分のせいで環を忙しくしてしまったと思う深知留のせめてもの償いであり、誠意であった。
 しかし、どうがんばっても眠ってしまう深知留を、環は毎回ベッドに運んでくれた。だが、環は運ぶだけで一緒に睡眠を取るわけではない。深知留を運ぶと必要な用事を済ませてすぐにいなくなる。
 一番初め、深知留は自分が寝ぼけてベッドに潜ったのだと思いこんだ。そして環は帰ってこなかった、と。しかし、二回目の朝には『先に寝ていること』という環からの書き置きが残されており、深知留は事の次第をようやく把握したのだ。
 それ以降、余計に迷惑をかけていると思った深知留は先にベッドで休むことにしたが、今日は環を待っていたかった。
「今日は久しぶりに学校に行ったんだろう? だったら早く休まないと。俺もすぐに出るから」
 環は深知留にブランケットを掛けてやると、部屋のドアに向かって踵を返す。
「おやすみ、深知留」
 そう言って出て行こうとした環に対し、深知留はその身を起こしていつかのごとく彼の着ていたコートの裾を後ろからクイッと引いた。
 計算も考えもない咄嗟の行動だった。
「もう……行っちゃうんですか?」
 自分で気づいた時には、深知留はそう言葉を紡いでいた。
「どうした? 何か用事があった? それとも……困ったことでも?」
 足を止め、振り返って問いかけた環に深知留は急に正気を取り戻した。
(何してるんだろ……わたし、何で環さんを引き留めちゃったんだろう……)
 深知留は自分の行動が理解出来なかった。しかし、何だか今日は環と離れ難い。
 理由は分からなかったが、もう少しだけ環にはそばにいて欲しいと今の深知留は思う。
「深知留?」
 返答のない深知留に環はベッドサイドに腰掛けて心配そうに尋ねる。
 深知留はそれに対し、かぶりを振った。
「何も……何でもありません。でも……」
「でも?」
「わたしが退院してから、環さんずっと忙しくて……顔、まともに見てなかったから……」
 深知留は一度は俯き加減になったが、意を決したように環の目を見る。そして、思っているままの言葉を紡ぐ。
「もうちょっとだけ、環さんの顔が見たいかなって……。だから、今日……環さんを待っていたんです」
(――――)
 その時、環の心臓がトクンと大きく一つ跳ねた。
 言いながら照れたような困ったような微笑みを見せた深知留に、環は年甲斐もなくわずかに自分の頬が紅潮するのを感じていた。
 今目の前にいる深知留は化粧気のひとつも無い姿で、見合いの時に比べたら特別綺麗であるわけでもなかったのに、環は笑顔の彼女を無性に可愛いと感じていた。
「環さん、全然帰らないくらい忙しいから、もしもげっそり痩せちゃったりしてたらわたしどうしようかと思って……」
 何の言葉も発しない環に深知留は続ける。
「そもそも、環さんを忙しくさせたのわたしの責任ですし……」
「違う。それは深知留のせいじゃない」
 環はガクリと俯いてしまった深知留の両頬に手を当てて、しっかりと自分の方を向かせた。
 もっと深知留の顔を見ていたかったから。
「元々十二月なんて、こんなもんだよ。多少仕事がたまってはいたが、それ程忙しいわけでもない。だから気にするな。それに、ここで寝ていないだけで会社の仮眠室で十分に睡眠もとっているよ」
「本当に?」
 疑い半分に尋ねる深知留に、環はもちろん、と笑顔で答える。
 深知留は安堵のため息を漏らしながら、頬にある環の両手に自分の手をそれぞれ重ねる。
「良かった」
(――――)
 満面の笑みを見せた深知留に対し、環は突如こみ上げた衝動を奥歯を噛みしめることでやり過ごそうとした。
 そして、環は意識を別の物へと移すべく深知留の頬からなるべく自然に手を外し、今まで最大限の光調整にしてあったベッドサイドの手元灯を最小限にまで絞る。
 その時、深知留が一瞬表情を歪めたことに環は気づかなかった。
「さぁ、もう遅いから寝なさい。明日も大学へ行くんだろう?」
 環はそう言ってベッドから立ち上がり、部屋を出ようと踵を返す。
「今日も会社に泊まるんですか?」
 深知留はそれを追うように彼の背中に尋ねる。
「仕事を残してあるんだ」
 環は振り返らずに答える。
(やっぱり……行っちゃうんだ)
 予測できた答えではあるが、何だか得体の知れない寂しさが深知留の心に生まれる。
「おやすみ」
 そう言って出て行ってしまった環を見送った後、深知留は手元灯の光を最大限にし直し、ブランケットにくるまった。
 そして、わずかに震える体を自らで抱きしめるようにして小さくまとまった。
 その晩からまたしばらく、深知留が環の姿を見ることはなかった。








 深知留の元を去った環は、門の外で待たせてあった車に乗り込んだ。
「深知留さんにお会いになったんですか? 今日も環様をお待ちで?」
 車中で待っていた政宗は、車が発進してすぐに尋ねた。
「いや。寝てたよ」
「でしたら、寝込みでも襲ったんですか?」
 突然訳の分からないことを言い出した政宗に、環は訝しげな顔を見せる。
 そんな環に政宗はクスリと笑みを見せると、徐に環の着ているコートの胸元に手を伸ばす。
「これ、深知留さんのでしょう?」
 政宗が手に取ったのは一本の長い黒髪だった。
「それは……彼女をベッドに運ぶ時に……」
「はやり、お待ちだったんですね。お優しい方ですから、環様のことが心配なのでしょう」
「…………」
 見事に状況を言い当てられた環は、返す言葉がなかった。
 政宗は洞察力に長けている男である。
「かわいそうに……。環様も毎日理由を付けてホテル住まいなどなさらず、深知留さんのそばにいて差し上げればよろしいのに」
「馬鹿を言うな。恋人でもない女性をそばに置いて、一晩中過ごせと? 一日二日ならまだしも何週間単位だぞ? ……だからと言って兄さんたちの手前、部屋を変えるわけにもいかない。だったらホテル住まいするよりないだろう。俺は残念ながら聖人君子じゃないんでね」
 ため息混じりの環に対し、政宗は「そうですねぇ」と否定も肯定もしない返事をする。
「……それより、彼女は?」
 数拍の間をおいて、環は思い出したように政宗に尋ねた。
 その声は、先ほどよりも絞られている。
「ホテルの部屋番号をお伝えしておきましたよ。既にそちらの方でお待ちなのではないかと」
「そうか……」
「ホテルの者には手を回しておきましたから、何の問題もないでしょう」
「すまないな」
「いいえ、仕事のうちですから。それより……」
 政宗は一度言葉を止め、環の横顔を見ながら不敵な笑みを見せた。
「“彼女”なんて随分と他人行儀な言い方をなさるんですね」
 政宗の言葉に環はその眉間にわずかに皺を寄せ、不機嫌な様子で彼を見やる。
 そして、
「……他人、だろう。ミチルは」
 環は何かを考えるようにその視線をすぐに窓の外へと移した。