事件というのは予兆もなく突然に起こるものだ。
 それは数日後の土曜日のことだった。
 その日、鈴は龍菱家で論文書きに煮詰まっていた深知留を食事に誘ってくれた。
 休日にも関わらず環も相変わらずの不在で、ちょうど気分転換をしたかった深知留はその誘いを二つ返事で受けたのだ。
 最近出かけるときにはいつもお世話になる鈴専属の女性運転手に連れられて、二人は郊外に建つ洒落たレストランへと出かけた。
「環さん、近頃忙しいみたいだけれど深知留ちゃん退屈していない?」
 料理が運ばれてくるまでの間、鈴は深知留に問いかけた。
「大丈夫ですよ。お仕事が忙しいのは仕方のないことですから」
 深知留はそれに差し障りのない返答をする。
 鈴はよく、こうして深知留の心配をしてくれていた。
 それは恐らく、環か誰かが鈴に頼んでのことだろうと予測できたが、それでも深知留は鈴の気遣いが嬉しかった。
 それから二人は他愛もない話を交わした。
 それは最近巷で流行っている物の話だったり、ファッションの話だったり……いつでも誰とでも話せるような話題。
 鈴と深知留の会話はいつもこんな調子だ。それも二人が知り合ってからの期間を考えれば無理もないとは思うが、鈴はどこか、人には踏み込まず、また踏み込ませずなところを持つ人物だ。
 それを察した深知留は、多少物足りなさを感じながらも鈴のスタンスに合わせるようにしている。
 間もなくして、運ばれてきた料理を深知留と鈴は美味しく平らげ、最後はシェフオリジナルの創作デザートに舌鼓を打った。
 十分に食事を満喫した二人は席を立ち、預けてあったコートを受け取り店の出入り口へと向かう。
 そして女性従業員が店の出入り口の扉を開いたその時だった。
 そばにいた男性従業員が不意に一歩前に歩み出る。
「龍菱さま、袖にゴミが……失礼致します」
 そう言って彼が鈴の腕に手を触れた瞬間、
「イヤァァァァァァァ!!」
 突然、絹を切り裂くような悲痛な叫び声が上がった。
 一瞬の出来事に店内の者全ての意識が、声の上がった方向に集まる。
 深知留もまた、声の主、鈴に視線を釘付けにしていた。
 叫んだ鈴は崩れるようにその場にうずくまり、ガクガクと震えている。
 何が起こったのか……深知留はもちろん、その場にいた誰も理解出来なかった。
「一体何事だ?」
 マネージャーを務める男性が、騒ぎを聞きつけてすぐに店の奥から出てきた。
 そばにいた従業員たちが、それぞれに事のあらましを説明する。
「それで、君は奥様に触れたのか?」
「はい、ゴミをとろうと少し……」
 何かを知っているらしいマネージャーは、その返答にわずかに顔を顰める。
 そして、事情を察したらしい彼は震え続ける鈴のそばに腰を落とした。
「申し訳ございません、奥様。こちらの不手際で……」
 マネージャーは謝りの言葉を述べるが、対する鈴は正気を保ってはいない。
「いやぁ……やめて、来ない、で……助け、てぇ……怖い…………」
 鈴は話を聞くどころか、頭を抱え、震える声でそう呟くだけだった。その焦点は定まっておらず、息苦しいのか肩を上下させて呼吸をしている。
 しかし、誰もどうすることもできずにただそんな彼女を見ていた。
 その時、
「奥様……」
「すみません、どいてください」
 再び鈴に話しかけようとしたマネージャーを遮ったのは、他でもない深知留だった。
 状況を見るに見かねた深知留は、少しの躊躇もなく小柄な鈴の体を包み込むように抱きしめる。この時、深知留の頭には一つの予測が浮かんでいた。
 何かに怯え、尋常ではないパニックを起こす姿……深知留は今の鈴と似たような状態を知っていたのだ。
 抱きしめられた鈴は、最初その腕の中で狂ったように騒いだ。意味をなさない言葉を幾つも口走り、深知留の腕に爪を立て、殴るように胸を叩きつけ……。鈴は深知留を誰だかさえ認識していないようだった。
 それでも、深知留は力を緩めることなく鈴を抱きしめ続けた。
「大丈夫、大丈夫ですよ、鈴さん。わたし、深知留です。わたしがそばに付いてますから、ね?」
 深知留は言い聞かせながら鈴の体を優しく撫でる。何度も何度も繰り返して。
 どれくらいそうしていたのだろうか、一時期、過呼吸を起こしそうなほどに酷かった鈴の呼吸はいつの間にか穏やかになっていた。やがて抵抗も止めて、鈴は深知留にすがりつくように抱きついている。
「ごめ……ごめんね……深知留ちゃん…………」
 鈴は溢れんばかりに涙をためた瞳で一度だけ深知留を見て、その意識を手放した。








「鈴!!」
 勢いよく部屋に飛び込んできたのは、髪の毛を振り乱した雅だった。
 ベッドサイドに座っていた深知留は唇の前に人差し指を立てて、目線で鈴が寝ていることを指し示す。
 深知留と雅はそのままリビングへと向かった。
 あれから、深知留は鈴を連れて迎えに来ていた車に飛び乗った。鈴専属の女性運転手に事のあらましを伝え、病院に行くかと尋ねると、彼女は、心配はないからそのまま家に帰る、とだけ深知留に告げた。
 深知留は事情を知っているらしい彼女にその後一つだけ尋ねた。
『鈴さんは、男性恐怖症ですか?』
 運転手は無言のまま深く頷いた。
「事情は、電話でお話しした通りです。かなりの錯乱状態でしたが、幸いにも外傷らしいものは負っていません。先ほどかかりつけのお医者様に往診をしていただきましたが、先生はいつもの症状だ、と。しばらく安静にしているように、とのことです」
 深知留はリビングのソファーに座るなり、必要と思われることを雅に伝える。
「そうか、すまなかったね深知留ちゃん。……驚いただろう?」
 雅は大きな安堵のため息を漏らした。深知留がいる手前冷静さを装っているが、彼がどんなに鈴を心配していたのかが見て取れる。
「驚きました。でも、大丈夫ですよ。わたし……鈴さんと似たような症状を持つ人を、知ってるんです」
「それならなおさら、深知留ちゃんがいてくれて助かった。最近はこんな事無かったから、俺もすっかり安心してたんだ。随分世話をかけてしまって……本当にありがとう」
 雅は一度言葉を切り、その頭を深々と下げる。
「それで深知留ちゃん、鈴がその……抱えている問題はもう聞いた?」
 雅は少し表情をしかめて深知留に尋ねる。
 深知留はその問いにゆっくりと頷く。
「帰りの車の中で運転手の方から少し。ただ、男性に恐怖心があるということだけしか聞いていません」
 しばらくの間、二人の間に沈黙が続いた。
 やがて、いつものような穏やかな表情を取り戻した雅が深知留に焦点を合わせる。
「深知留ちゃんはそう遠くなく家族になる人だからね。全てを知っておいてもらいたい」
 雅はそう言って静かに話し始めた。








 その日の晩、珍しく環は仕事から早く帰ってきた。というか、戻ってきた。
「深知留!」
 深知留がそろそろ寝ようかと思っている時に、髪を振り乱した環が部屋に飛び込んできたのだ。
「……あれ? 環さん。そんなに急いでどうしたんです?」
 深知留は悠長に環を迎え入れる。
「環さん確か、今日は韓国に出張でお帰りは明日のはずですよね?」
 記憶によれば、環はおとといから韓国出張に出かけており、帰国は明日になるはずだった。
「深知留……君、大丈夫なのか?」
「え? 何がです? ?」
「何がって、深知留が倒れて病院で往診が、だから韓国の最終からって……」
 よほど焦っていたのか、環は脳内にあった言葉をそのまま早口に並べ立てる。
 正確には、
『深知留が倒れたので病院から往診を頼み、それを聞いて韓国から最終便の飛行機で帰ってきた』
 ということを言いたいのだが、環は自分の犯した間違いに気づかないほど焦っていた。
 対する深知留は、そんな環を見ながら自然と顔を綻ばせてしまった。
 鈴の状態を考えれば不謹慎な話であるが、自分のために環が大急ぎで帰ってきたと考えたら、深知留の心にはかすかな喜びが掠めたのだ。
「環さん、日本語変ですよ? とりあえず少し落ち着いてください」
 深知留は何だか可笑しくて少し笑いながら焦る環を宥める。いつも冷静沈着で余裕いっぱいの環がこんなに焦る姿は深知留にとっては珍しい光景だった。
 そして、深知留は環が落ち着くのを待つとその表情を真剣なものへと切り替えた。
「倒れたのはわたしじゃなくて鈴さんです。精神的な問題だけで特に怪我はありません。連絡を入れてすぐに雅さんが帰宅してくれましたし、今は傍についていらっしゃるので大丈夫だと思います」
「深知留……義姉さんの事情はもう?」
 深知留の言葉で事の次第を察したのか、環は含みのある問いを彼女に投げかける。
 深知留はそれにゆっくりと頷いた。