それはまだ深知留が小学校低学年だった頃のこと。
 十二月十六日の誕生日の夜、深知留は仕事を終えて帰ってくる多英子を待っていた。数分前には多英子から「ケーキを買って帰るね」と電話があって、深知留は今か今かとソワソワしながら。
 深知留がそうして一人で多英子の帰りを待つのはいつものことで、その日も別に変わったことはないはずだった。
 しかしただ一つ、いつもと違ったのは、その日深知留が電気を消して多英子を待っていたことである。帰ってきた多英子を驚かせようと、深知留は暗闇の中、息を潜めてクローゼットに隠れていたのだ。
 深知留がクローゼットに入って十数分後、聞きなれない音と共に窓ガラスが割れた。
 驚いた深知留がクローゼットの隙間から覗き見ると、暗闇の中、二人ほどの人物が懐中電灯を持って部屋をうろついているのが見えた。
 そこから先、深知留には記憶がない。
 気が付いたら、めちゃくちゃに荒らされた室内に警察官が数名いて、深知留は涙で顔を崩した多英子に苦しいほど抱き締められていた。
 深知留が見たのは近隣を荒らし回っていた窃盗団だった。電気のついていない深知留の家が留守だと誤解した窃盗団が忍び込んだのだ。
 幸い、彼らが窃盗を働く前に多英子が帰宅し、何も被害は出なかった。
 深知留はクローゼットにいた事が功を奏し、運良く事なきを得たものの何も覚えてはいなかった。医師の見立てでは、恐怖と衝撃で記憶障害を起こしたとのことだった。
 それからしばらく、深知留は『真っ暗闇』と『独り』を嫌った。何かを思い出そうとするのか、深知留は何度もパニック症状を起こしたのだ。
 それでも、多英子の献身的努力により、深知留は成長と共にその忌まわしいトラウマを薄めていった。
 しかし、完全に消えることは無かった。成人した今も十二月だけは、深知留は『独り』を苦手としている。

「記憶、無いくせに怖いんですよね。今はセキュリティがしっかりしたマンションに越したし、その窃盗団もあれからすぐに捕まったから、もう済んだこと……なんですけどね」
 話終えた深知留は感情のやり場がない様子でハハッと笑った。
 環はそんな深知留を見ながら、いつの間にか震え出していた彼女の手を視界に入れていた。
「毎年、この時期になると母が仕事を抑えてわたしのそばにいてくれました。でも、今年はイギリスだから……。それでバイトってわけなんです。バイトしてたら独りになる時間、少なくて済むでしょう? それに生産的だし。以前に比べれば随分平気になったんですけど、暗がりに独りだと……まだちょっと……パニック起こしそうになります」
 停電が起きただけで泣き叫び、夜中に目を覚まして隣に母がいないだけでパニックを起こしていた昔に比べれば大したことなどなかった。『我慢できる』程度には回復している。それでも、深知留は今でも極力『真っ暗闇』と『独り』を避けている。
 そんな状況を知っている多英子は今回のイギリス出張を最後まで迷ったが、深知留の後押しにより決断をしたのだ。
 自分のために多英子にチャンスを失って欲しくなかった深知留は、後にも先にもその選択に後悔はない。後悔はないが、それでトラウマが排除出来るかと言われればそんな簡単なものでもなかった。
 深知留は止まる気配のない震えを潰すように、その手をキュッと握りしめる。
 その時だった。
「た、環さん!?」
 環が震える深知留の手を掴み、そのまま自分の胸元に彼女を抱き寄せたのだ。
「ごめん……。何も知らなくて……深知留を独りにして…………。ごめん……」
 突然のことに動揺する深知留などお構いなしに、環はその腕に力を入れる。
 深知留の話を聞きながら、この時、環は一つのことに気づいていた。
 それは、彼女が眠る時に決して部屋を真っ暗にはしなかったということ。
 環はいつでも深知留が寝入った頃合いを計って帰宅していたが、その時には部屋の大きな照明がついていることが多かった。それは単に深知留が消し忘れただけだと思っていたが、それが消えている時でも、手元灯が明るすぎるほどについていた。
 それらに特別な理由があるとは思ってもみなかった環は、今初めてその行動が意味することを理解したのだ。
 そして、環の脳裏には数日前に聞いた深知留の台詞が蘇る。
『心の問題は難しいですからね。良くなったと思っても思い出したように急激に悪化する。本人でさえどうしようもなくて、解決策が見つからないから余計に辛いんですよ』
『……知り合いが、鈴さんと……ちょっと似てるんですよ』
 同時に、その台詞を言った時の深知留の哀愁を帯びた何とも言えない表情が環の中でフラッシュバックする。
(なぜ……なぜ気づかなかったんだ……)
(知り合いなんかじゃない……深知留本人の事だったんだ……)
 環は深知留をさらに強く抱きしめた。
「大丈夫ですよ……環さん」
 環の胸の温かさが何だかとても落ち着いて、深知留の震えはいつの間にか収まっていた。
 そして、深知留は環の心地よい胸に体を預けながら呟くように話し始める。
「こんなこと言ったら軽蔑されるかもしれませんけど……。わたし偶然でもここに来て、暮らせて本当はラッキーだったんですよ。環さんは迷惑かけたって言いますけど、わたしにはむしろ好都合だったのかもしれません。本当は母がイギリスに行ってから毎日どうして凌ごうか不安でした。でも、ここにいれば絶対独りにはなりませんから」
 言う通り、ここに来てから深知留は独りになることは無い。ここはメイドたち使用人がたくさんいる環境で、常に深知留の視界には誰かが入る。さらに最近では鈴が常に一緒にいて……逆に独りになるのが難しいくらいだ。
 それも本当は“鈴のため”に彼女の傍に居たはずなのに、気がつけば“自分のため”だったのかもしれないと深知留は思っていた。
 しかし、深知留の中には最近確実に葛藤が生まれている。
「でもね、今は罪悪感が大きいんです。みんなわたしを環さんの本当の恋人だと思っているから優しくしてくれるわけで、その人たちを騙して利用していると思うと……心苦しいです。だから……」
 深知留はそこまで言って、環から自分の体を静かに離す。
「だから、もしどうしても環さんが今回のことにバイト代を払ってくれるというなら、わたしがここにいることを、その代償にしてもらえませんか? お願いします。それでもう、十分ですから」
 深知留がそのまま深く頭を下げると、環はゆっくりと頷いた。
 そして深知留の手を包み込むように握りしめる。
「深知留が嫌でなければ、君のお母様が帰ってくるまでずっといても構わないよ」
 深知留はそれに、ありがとうございます、と呟くように返事をした。そして、温かい環の手を静かに握り返した。
 その日の晩、環は深知留が寝入るまでずっとベッドサイドで彼女の手を握っていてくれた。
 独りで眠る時は寝入るまでに数十分単位で掛かる深知留も、安心したのか薬を使ったように眠ってしまった。

 この晩から環は毎日寝入るまで深知留の傍に居てくれた。
 深知留が寝入った後、環はベッドルームと仕切り戸を挟んだソファーで仕事をしながら寝ているようだった。
 誰かが常に居てくれる……深知留にとってそれは嬉しいことであったが、反対に不安であるのも事実だ。
 それも無理はない。これまで毎晩と言っていいほど会社で寝泊まりをしていた環が突然家に居るようになったのだから、深知留は自分が弱音を吐いたせいで環に酷く負担を掛けてしまったのではないかと思ったのだ。
 そこで、
「お仕事大丈夫なんですか?」
 と尋ねてみると、
「持ち帰って片づけられる仕事だから大丈夫だよ」
 と環は答えた。
 でも……、と未だ心配そうな面持ちを見せる深知留に環は言った。
「俺がいるのは迷惑?」
 それは深知留が鈴に言った覚えのある言葉だった。
 だから答えた。
「傍にいてくれますか?」
「もちろん。深知留の傍にいるよ」
 環は深知留の好きなお日様のような笑顔を返してくれた。