「だ、め……」
 寸前のところで深知留は環の口元を手で抑えた。
 それはもう、掌越しにキスをしていると言っても過言ではない。
 口元を抑えられた環はその眉根にわずかに皺を寄せる。
「……た、環さん!!」
 深知留は頬が火照るのを感じながら、叱責するように環の名を口にした。
「へ、へへ変な冗談はやめてください」
 あまりの羞恥に深知留の口からは必要以上に吃音が出る。
「……冗談?」
 対する環は、深知留の手首を掴んで自らの口元から離し、シレッとした様子で尋ね返す。
 深知留はもはやあまりの羞恥に耐えられず、環から視線を外す。
「こういう……こういうことは……恋人同士がすることです」
「こういうってどういう?」
 環は意地悪く尋ねる。分かっていないはずなどないくせに。
 深知留は睨み付けるように環を一度だけ見上げ、そしてまた視線を外した。
「それは……その……キスは……恋人同士が、するものです…………」
「深知留は俺の恋人だろう?」
「そうじゃなくて……ホントの……本物の恋人同士じゃなきゃ駄目なんです!」
 深知留は少し語尾を強くして、そそくさと環の腕をすり抜ける。
「もう、環さんてば……悪戯が過ぎますよ」
 深知留はいつまで経っても引かない頬の火照りに、照れ隠しをするようそう言った。
 一方、その言葉を受けた環はどこか寂しさを含む表情で深知留の後ろ姿を捕らえていた。








 翌日、昼過ぎから仕事で華宮プリンスホテルに来ていた蒼は長引いた会議を終えてエントランスで車を待っていた。
 何気なくホテルのエントランス全体を見回していると、エレベーターから降りてきた二人組が視界に飛び込んできた。
「あれは……」
 蒼はすぐにそのうちの一人に目を凝らす。
「蒼様? どうかされましたか?」
「竜臣、アレ……今エレベーターから出てきた右側の男……」
 蒼は隣に立つ竜臣に視線の動きだけでその人物を指し示す。
 竜臣は彼を認識すると、あぁ、と納得したように声を漏らした。
「菱屋のご子息ではないですか。確か今は菱屋物産の常務、でしたか? 残念ながらお名前までは把握できておりませんが。雅様……いえ、環様でしたか? ……おっと、逢い引きですかね?」
 竜臣は、男性の隣を歩く女性に目を止めて蒼に疑問を投げかける。
 男性、菱屋物産の常務……環の隣には、小綺麗な女性が寄り添うようにして歩いていた。
 しかし、それは深知留ではない。女性は、年の頃は環と変わらないくらいだろうか、遠目でも綺麗だと思う人だ。
 どう見ても、それは恋人同士が逢瀬を終えて帰るところに見える。
「菱屋の常務といえば、先頃蓮条氏の一人娘と破談になったと伺いましたが……恋人がいらっしゃったんですね。流石にロータスに行くことはできず、華宮プリンスうちをご利用いただいているということですか」
(一体……どういうことだ?)
 蒼は竜臣の言葉を聞きながら、険しい表情で環を追視していた。








 帝都大学の理工学棟の一角にあるリフレッシュルーム。
 深知留はジッと見つめていた。今、隣にいる人物の顔を。
 その人物は、今しがた深知留から受け取った資料一式を封筒の中から取りだして確かめている。
「……俺の顔に何か付いてるか?」
 やがて、明らかに感じる視線に居たたまれなくなった人物、蒼は怖ず怖ずと深知留に尋ねた。
「ううん、別に。……それより、その資料一応由利亜ちゃんに頼まれたもの一式と、あとは必要と思われるものを足しておいたの。その分は付箋を貼っておいたから」
 蒼は再び視線を資料に戻し、付箋のチェックをする。
 深知留も再びそんな蒼をジッと見つめる。
「あのなぁ、深知留。用事があるなら言ってくれ。意味もなく見つめられると気味が悪い」
「随分な言われようね……由利亜ちゃんだったら嬉しいくせに」
「そういう問題じゃ……」
「あ、由利亜ちゃんに見つめられたら、蒼の場合恥ずかしくて仕方ないか。それとも、見つめられたこともない?」
 蒼を遮って深知留はアハハと笑い飛ばした。
 一瞬、蒼はその眉間に皺を寄せる。
「で、何だよ。さっきから人の顔ジロジロと見て」
「特に意味はないの。ただ、蒼の顔だったら、どれだけ見てても何も感じないと思って。まぁ一応綺麗な顔してるから、目の保養くらいにはなるけど」
「お前それ、軽く失礼なこと言ってるの分かってるか?」
 蒼はため息混じりに深知留の非礼を指摘する。
「だって何とも思わないんだもの。大丈夫よ、由利亜ちゃんはきっとドキドキしてくれるから」
 再び由利亜を引き合いに出された蒼は、一拍ほどの間をおいて深知留に視線を合わせた。
「だったら、お前は龍菱さんだったらときめくとでも?」
「べ、別にそんなことは……」
 深知留は蒼の予想外の言葉に動揺する。
「図星、だろう?」
 形勢逆転に成功した蒼は余裕を取り戻した様子でフッと笑みを零す。
 昔から一緒にいれば、深知留が何を考えているのかくらい蒼にはよく分かった。あくまで余談であるが、これが由利亜に使えたら、と時々恨めしく思う程に。
 そんな蒼の事情など露知らず、心情を言い当てられた深知留は気まずそうな顔をしている。
 蒼はそんな深知留の様子をしばらく窺っていたが、その表情をいつの間にか真面目なものに替えて静かに切り出した。
「あのさ、深知留……」
「ん?」
「龍菱さんだけど……」
 蒼は言いかけたまま言葉を濁した。
「何? 環さんがどうかしたの?」
 深知留は蒼を急かす。
 しかし、蒼はすぐには答えず視線を宙に浮かせたまま、何かを考えているようだった。
「ねぇ……蒼?」
 深知留は不思議そうに首を傾げる。
「いや……どうもしない。せいぜい、その“環さん”が恥をかかないように十四日の夜はおとなしくしてろよ、って言おうとしただけだ」
「確かにわたしは淑女じゃないけど、その振りくらいはできるのよ」
 深知留はべーっと舌を出して、蒼に答える。
「それが淑女のすることか?」
「十四日はしません。……あ、ごめん蒼……わたし、もう行かなきゃ」
 深知留は腕時計をちらりと見やると、そそくさと席を立つ。その表情は何かを楽しみにしている、そんな顔だ。
「龍菱さんと約束か?」
「……まぁね」
 蒼の勘はやはり当たった。本当に、分かりやすい幼馴染みだ。
「別に、デートとかじゃないからね。論文、見て貰う約束してるだけだから。彼、偶然にもうちの研究室の卒業生だったの。だから良い先生なの。それから……由利亜ちゃんに、明日の試験がんばってって伝えておいてね」
 深知留はそう言うと、バイバイと言って蒼に背を向けた。
「おい、深知留……」
「何?」
 蒼の声に深知留は振り返る。 
「お前……龍菱さんのこと、あまりのめり込むなよ?」
「…………?」
 深知留は意味が解せないという顔で蒼を見つめる。
「蒼、どうかしたの? さっきから変だよ?」
「いや、深い意味はないよ。ただ……お前と彼は単なる契約上の関係だってこと、よく肝に銘じておけよ?」
 蒼は昨晩見かけた環のことを思い出しながらも、それを払拭するように言った。
 今はまだあくまでも憶測の段階だ。あの女性が龍菱環の恋人だと決まったわけではない。その時点で、何かを深知留に言うべきではないと蒼は思ったのだ。
(単なる勘違いだといいんだけどな……)
 蒼は深知留の背中を見送りながら願うように思った。