その日の晩、深知留は、由利亜と蒼の三人で華宮プリンスホテルに食事に来ていた。
 由利亜の試験が終わったお疲れ様会だ。
 深知留は二人きりで行けばいいのに、と遠慮したが、由利亜がどうしても一緒に、と誘ったのだった。
「うー寒い。すっかり冬ですね。今年はたくさん雪降るかな?」
 食事後、外に出ると気温はすっかりと落ちていて息が白く見えた。
 由利亜は徐に空を見上げる。
 その途端、くしゅんとくしゃみをした。
「ほら由利亜、風邪引くぞ」
 蒼がそんな由利亜の首にそっとマフラーを巻いてやる。
 深知留はそんな二人を微笑ましく見ていた。
「もう風邪引いても大丈夫だもんね。試験終わったし、看病を理由に蒼に休みでもとってもらったら?」
 深知留がからかうように言うと、由利亜は「ダメですよぉ」と困ったような嬉しいような、何とも可愛らしい反応を見せる。
「試験が終わったってだけで、まだ、受かるかどうかは分かりませんし……」
「大丈夫よ。面接だって全部答えられたんでしょ? しかも、運の良いことに面接官はうちの宗本教授だったんだし……滅多なことがなければ落ちないと思う。それに由利亜ちゃん、元の成績も良いんだから後は、果報は寝て待て、ね?」
 深知留はナーバス気味な由利亜を励ますようにその肩をポンポンと叩く。
 その時だった。
「……痛ッ」
 深知留は突然俯いた。
「深知留さん!?」
 驚いた由利亜が覗き込む。
「大丈夫……コンタクトがずれたみたい」
「ちょっと待ってください。わたし、たぶんポーチに手鏡入ってますから」
 由利亜は慌てて自分の鞄をまさぐる。
 が、
「あれ? 無い……あ、そうだ!! わたしさっきトイレに行った時……」
 由利亜は先ほどトイレでポーチを出したことを思い出す。その時に洗面台の傍に置いたまま忘れてきたのだ。
「わたしすぐに取ってきます。蒼さん、とりあえず深知留さんのこと見てあげてください!!」
 由利亜はそれだけ言うと、大急ぎでホテルの中へと再び入っていった。
 深知留はその間にも瞬きをしてみたり、色々と試してみるが痛みとごろつきが生じるばかりで涙がポロポロとこぼれてくる。
「深知留、ちょっとこっち向いてみろ」
 蒼は由利亜を見送りながら、深知留の頬に手を寄せる。
「睫毛かゴミ……入ったかも。いったーい……」
 蒼は両手を深知留の頬に寄せ、顔を近づけて暗がりに目を凝らした。



 ◆◆◆



 ちょうどその時、道を挟んで向かいのビルから出てきた人物が居る。
 環と政宗だった。
「おや。あれは……」
 先にビルを出た政宗は足を止めて窺うように道の反対側を見ている。
「政宗、早くしろ。昨日の埋め合わせで深知留と約束してあるんだ。なるべく早く帰りたい」
 環は時計を確認しながら、政宗を急かす。
 しかし、政宗は動こうとはしない。
「環様、私の目に間違いがなければ……あれ、深知留さんだと思うんですが?」
 政宗の言葉に、まさかそんなことが、と思いながらも環は時計から視線を上げ、政宗の視線の先に自らの視線を運ぶ……
(深知留……?)
 道の反対側、確かにそこには深知留の姿があった。遠目ではあるが、背格好も雰囲気も、彼女に間違いはない。
 そして、そのすぐ傍には誰か、男性の姿が見える。
(もう帰っている時間じゃないのか? ……どういうことだ?)
 環のその表情は無意識のうちに険しいものになっていた。
 すると、その男性は公衆の面前だというのにもかかわらず、深知留の頬に手を寄せ、自身の顔を近づけた。
「こんな大通りでキスなんて……若いですねぇ。深知留さん、恋人がいたんですか?」
 政宗は呆れ半分、と言った感じで環を見やった。
「……さぁ……」
 環は深知留と男性に向けた視線を動かせないまま、返事とも付かぬ声を漏らした。
「ご存じないんですか? でしたら深知留さんも、なかなか遣り手ですね。そうは見えない方でしたのに、意外でした」
「…………」
 政宗は答えない環から視線を外すとそれを再び深知留へと戻し、何かを考えるようにその目を細めた。








「あ、直ったみたい。ありがと、由利亜ちゃん」
 深知留は由利亜が取ってきてくれた手鏡から顔を上げ、未だに目尻に残る涙をハンカチで拭った。
「いえいえ。良かったです。そうだ、深知留さん、この後少しうちに寄っていきません?」
 由利亜は手鏡を鞄にしまいながら深知留に誘いをかける。
 それは、いつもの深知留なら応じてくれる……そう思っての誘いだったのだが、
「うーん。今日は遠慮する。もう遅いし」
 深知留はやんわりと断った。
「あ、深知留さんもしかして……実は、龍菱さんが待ってる、とか言うんじゃないですか?」
「まぁ……ちょっとね。約束してるの」
 由利亜が冗談半分に投げかけた真尋よろしくな質問であったが、深知留は少し照れた様子で素直に認めた。
 というのも、今の深知留はできるだけ早く龍菱の家に帰らなくては、と思っていたのだ。
 今朝読んだ環の書き置きには今日の夜埋め合わせをすると書いてあった。しかし、今夜は予想外に由利亜達と食事に出てしまった深知留は、夕方一度その旨を伝えるために環の携帯に電話をした。けれど、電源が切ってあるようで電話は繋がらなかった。
 それで仕方なしに深知留は鈴に電話をかけ、今日は少し遅くなると環への伝言を頼んだ。しかし、面倒をかける身としては彼を待たせるのはあまり好ましいことではない。
 それに昨日会えなかった分、深知留は早く環の顔を見たかった。それが本音だった。
「とにかく、由利亜ちゃんも久しぶりに蒼と二人でゆっくりすれば? ね? 蒼」
「……由利亜、深知留にはまた別の日に来て貰ったらいいだろう?」
 ちらりと目があった深知留の顔で何かを察した蒼は、彼女に助け船を出す。
 それで何を解釈したのか、由利亜は「なるほど」と小さく独り言を呟いた。
「まぁ、そう言うことなら邪魔しませんよ」
 由利亜は含みのある笑みを見せる。
「別に、環さんとは論文見て貰う約束してるだけよ? ……じゃあ、由利亜ちゃんも蒼もまたね。おやすみ」
 由利亜のその笑みに良からぬことを察した深知留は、やや説明臭い言い訳を口にしながら二人に別れを告げた。
「深知留さん、いい顔してましたね」
 由利亜は深知留の背中を見送りながら隣の蒼に話しかける。
「そうだったか?」
「はい。凄くいい顔してました。元々優しそうに笑う人ですけど、もっと柔らかくなったっていうか……わたしが言うのは失礼ですけど、なんだか可愛いですよね」
 先ほどの深知留の笑顔を思い出しながら由利亜はフフッと笑った。
 環と約束があると言った時の、嬉しさを隠しきれない様子の深知留……
 いつも凛としてしっかりとしたお姉さん、というイメージしかない由利亜にとって、それは新鮮な深知留であった。
「龍菱さんのこと……好きなんでしょうね」
「深知留が?」
「はい。あの顔は恋してますよ、絶対に」
「何でそう思う?」
 蒼の質問に由利亜は一度うーんと考えた。
「まぁその……感覚的に、ですよ。同じ女だから分かるんです。オーラ、ですか? 別に色とかが見えるワケじゃないですけど。あー好きなんだろうな、って」
「やっぱり、そうか……」
 蒼は深知留の消えていった方向に視線を向ける。
「やっぱりってことは、蒼さんもそう思ったんですね?」
「まぁな……」
 蒼は気づいていた。
 深知留の心はすでに環に向いているということに。
 それを本人が口で否定するのは照れ隠しなのか、それともまだ本格的に気づいていないのか……
 そこまで分かるほどに蒼は深知留の気持ちを読み取っていた。
「深知留さん、幸せになれると良いですね。龍菱さんて、深知留さんの話では素敵な方みたいですし、ね?」
「…………」
 由利亜の言葉に蒼は返事ができなかった。
 幼馴染みとしては、当たり前の如く由利亜に同意して彼女の幸せを後押ししてやりたい。しかし、今の蒼は酷く複雑な気分だった。
 その脳裏に浮かぶのは、先日見かけた環とそれに寄り添う女性の姿……
「蒼さん? どうかしました?」
 難しそうな顔で何かを考え込む蒼に由利亜は首をかしげる。
「いや……。幸せに、なれるといいな。あいつはいつもお人好しで……自分は我慢してばかりだからな」
 蒼は心を掠めるモヤモヤとした気持ちを払うように、ため息を小さく一つ吐いた。