環はグラスの中の液体をグッと飲み干し、空になったそれをドンと乱雑に置いた。
 場所はとあるビルの最上階にある会員制のバー。環はこの行きつけの場所に政宗と共にいた。
 あれから、環は「気が変わった」とだけ政宗に伝え、彼を連れてここへやってきたのだ。
 政宗はグラスを揺らしてその中の氷を緩やかに溶かしながら、カウンター席の隣に座る上司を一瞥する。
 深知留の姿を見てから、たちどころに様子がおかしくなった環。そんな彼を政宗は冷静に観察している。
「そんなにショックですか?」
 長らく続いていた沈黙を政宗は静かに破る。
 それに対し環はなんとも機嫌の悪そうな顔を見せる。
「何でショックを受ける必要がある? 深知留に恋人がいようがいまいが、そんなこと俺には関係ない」
 環はそう言って再びグラスを煽った。
 政宗はそんな環を相変わらず観察している。
「やはり……ショックだったのですね。私は深知留さんの話など一言もしていませんが?」
「…………」
 環は政宗の顔をギロリと睨み付けた。
 政宗はそれに動じることもなく、むしろ環に笑顔を返す。
「お前、何でそんなに楽しそうなんだ?」
「えぇ。楽しいですよ。だって貴方のそんな顔、なかなか見られませんからね」
「随分にいい趣味をしているんだな」
 環は残っていた酒を飲み干し、馴染みのバーテンダーに次の杯を注文する。
「別に彼氏の一人や二人、今頃の子なら普通でしょう? それに当初の目的さえ果たせれば、そんなことはどうでもいい話。貴方達はただ単にお互い利用しているだけの関係……彼女はお金を得て、貴方は結婚を免れる……大事なのはその目的を果たすこと、それだけでしょう?」
「そんなこと、分かっている。だが、深知留は……」
――金など目的ではない
 政宗に言っても無駄だと思った環は、そのまま言えない言葉を酒と共に飲み下した。
(深知留は……単に、優しいだけだ。それに俺が漬け込んだだけのこと……)
(恋人がいるなら……そんなことなら……初めから断ってくれればよかったんだ。困ってる俺に同情なんてせずに…………)
 その時、環は無意識のうちにあることを思い返していた。
 それは……深知留にキスを止められた時のこと…………
 あの時あのシチュエーションで、確かに環は少し理性を見失っていた。
 その数分前、いつか誰かに手作りの贈り物を……と言った深知留になぜだか無性に苛つきを覚え、そんな彼女が自らの腕の中に収まっていると思ったら一瞬にして独占欲に駆られた。今この瞬間、深知留は他の誰でもない自分の物だと知らしめたくて……もはや我慢が効かなかった。
 しかし、彼女はそれを許してくれなかった。
 そういうシチュエーションに慣れていないのか、頬を真っ赤に染めながらも毅然とした態度で深知留は言った。
『……キスは……恋人同士が、するものです……』
 環はこの時点で気づくべきだった。
 深知留には本当にキスをするべき相手がいるのだという事に。
(あれは一体誰なんだ……どこの、どいつだ……)
 暗闇で深知留にキスをしていた男性を思い出しながら、環はこみ上げる苛つきを抑えきれずグラスを持つ手に力を込めていた。
 さらに、環は昨日偶然聞いてしまった深知留と鈴の会話を思い出していた。
 好きな人、環へプレゼントを……そう提案した鈴への深知留の返事……
『環さんは……ダメですよ』
 今でもはっきりと、思い出せる。深知留の困ったような口調、そして、置いた間さえも鮮明に。
 あれは深知留の本音だったのだ。
 キスの時と同じ……プレゼントをしたい相手は別にいるのだと……
(なんで……俺は、気づかなかったんだ……)
 環は気持ちのやり場がなくてグラスをどんどん煽る。
「環様……飲み過ぎ、ですよ。少しペースが速すぎます」
「…………」
 政宗の言葉に、環は答えなかった。いや、この時の環にもはや政宗の言葉など聞こえていなかった。
 今の環を支配するのは二つの思いだけ……
 深知留に恋人がいることに気づけなかった後悔と、もう一つは……
(傍にいて欲しい本当の恋人が……いたんだな…………)
 環の脳裏にはまた別のことが思い浮かべられる。
 深知留が抱えるトラウマを聞いた晩、いつもは芯があって凛としている彼女が、何だか弱くてとても心許なく思えた。そして、いつだって遠慮ばかりしているのに、その時は傍にいて欲しいと素直に環を頼った深知留……
 環はそんな彼女を守ってやりたいと真剣に思った。
 なのに……
(俺は単なる身代わりだったか……恋人の……身代わり……)
 環はもう一つの思い……大きな絶望感に支配され、深い溜息を吐いた。
 政宗はそれをただ黙って見つめていた。
 それから、どれだけ杯を煽ったのか、「いい加減にやめてください」という政宗の声がかすかに環の耳に届いた気がした。
「私は貴方の困った顔には興味がありますが、泥酔した姿に興味はありません」
 政宗はもはや容赦なく環からグラスを取り上げる。
 環はそれを怒るでもなく、頬杖をついたまま視線を宙に遊ばせていた。
「環様、今夜は深知留さんとお約束をしていらっしゃったのでは? 昨日はお帰りにならなかったんでしょう? 彼女のことですから、きっとまた寝ずに待っていらっしゃいますよ」
「待ってないさ……」
 環は視線を動かさずに呟くように答えた。
「きっと……今夜は恋人と会って満足してるだろう」
 そう言って環はフッと自嘲混じりの笑みを零した。
 政宗はそれにため息を吐きながら肩を竦める。
 しばらくの沈黙を経て、政宗は「でしたら……」と話を切り出した。
「環様も、深知留さんを満足させて差し上げればよろしいではないですか。女は貪欲な生き物ですからね、近くで十分に欲を満たせれば、わざわざ遠くには行かなくなりますよ。所詮、飼われる小鳥と同じです。自由な空を夢見ていたはずなのに、努力も無しに全てが手に入る籠の中の方がやがては最も自由な空間であると思うようになる……」
「それはどういう意味だ?」
「さぁ。……色んな意味で、とでも申しておきましょうか」
 環は怪訝そうな顔で政宗を見ていた。








 深知留が屋敷に戻ると、時計はちょうど午後十時を指していた。しかし、環はまだ帰っていないようだ。
 深知留は環を待たせていなかったことに安心しながらも、今日は帰ってくるかな、と少し不安な気持ちを抱えて待つことにした。
 しかし、そのまま時計の長針が二周りしても環は戻ってこなかった。その間、深知留は携帯を何度も開いたが環から連絡は何もなかった。
 こちらから掛けようかとも思ったが、大事な仕事の最中では迷惑だと思い我慢した。
(環さん……また急用かな……。それとも、何かあったのかな……)
 深知留は不安を抱えたまま環を待っていたが、やがて日中の疲れも手伝ってそのままソファーで寝入ってしまった。



 ◆◆◆



 政宗に送られて帰った環がおぼつかない足取りで部屋に入ると、ソファーの上で気持ちよさそうに寝息を立てる深知留が目に入った。
 テーブルには資料が広げられパソコンが立ち上げたままになっている。眠ってからしばらく経つのか、パソコンの画面ではあらかじめ設定されたスクリーンセーバーが動いていた。
 待っていたのか、と環はすぐに思う。
 そのまま環は深知留の眠るソファーに腰を下ろしたが、深知留は深く寝入っているのか身動き一つない。
 環はしばらくそんな深知留を見つめていた。
 規則正しい寝息を立てる彼女の表情は、あどけなさを感じさせる反面、女を感じさせるものでもある。
 しばらくして、深知留は少し身動ぎをした。
「……ん……」
 深知留の唇から小さな声が漏れる。
 それに刺激されるように、キスをしていた深知留の姿が再び環の脳裏をよぎった。
 環はまるで誘われるかの様に深知留の唇にそっと手を触れる。
 すぐに柔らかく温かい感覚が指先に走る。数日前に触れた時と同じ感触だ。病院で水を飲ませた時はカサカサだったそれも、今は健康そうに潤っている。
 不意に、この唇にキスをしたらどんなに柔らかいだろうかという疑問が、環の中で浮かび上がる。
 その時、
『環様も、深知留さんを満足させて差し上げたらよろしいではないですか』
 政宗の言葉が、どこかで聞こえた気がした。