深知留は体に感じる重みでその意識を現に引き戻されていた。
(……重い……何……?)
「……ンん……」
頭を軽く動かすと、知っている香りが深知留の鼻腔を刺激する。しかし、それにはいつもと違ってアルコールの匂いが混じっている気がした。
(環……さん?)
感覚が徐々に覚醒し始めると、唇に何かが触れたような気がする。
深知留はゆっくりとその目を開く…………
(――――!!!!)
突如目に入った至近距離の環に、深知留は悲鳴を上げそうになった。が、それは声にはならない。
環の唇が、深知留のそれを塞いでいたのだ。
今まで前後不覚に眠っていた深知留にとって、今この場で自分に何が起こっているのか、全く理解できなかった。
環が自分に覆い被さり、そしてキスをしている……
(……なんで?)
それだけが思考回路を支配して、パニックを起こした深知留はとにかくがむしゃらに身を捩って逃げようとした。しかし、覆い被さるように乗っている環はびくともしない。
それでもどうにか抵抗しようと環の肩から胸をドンドン叩くと、環はその両手を深知留の頭の上でひとまとめに絡げた。
その一瞬、唇がわずかに離れて深知留は大きく息を吸う。
「……ンはぁ……た、まきさ……」
深知留は何とか言葉を投げかけようとしたが、その唇は再び環に塞がれる。
そのまま角度を変え、環は深知留の口内に舌を差し入れた。
一気に感じたアルコール臭さに、深知留はその顔をしかめる。
「……ふ……ぁ……」
(環さん……酔ってるの?)
未だなお抵抗する深知留を誘惑するように、環は彼女の口内を乱暴に侵していく。
卑猥な水音を立て、歯列をなぞり、舌を絡め取り……攻めるようで焦らすような甘美な舌使いで環は深知留を追いつめていった。
(何? ……何が起きてるの?)
深知留は必死に考えようとするが、環はそれを許さないとでも言うかのように深知留の唇を貪る。
「……ぅン……ふぁ……う……ぁン……」
やがて深知留は、そのあまりに扇情的な環のキスに支配され、自らの意志とは反して堪えられない嬌声を零し出す。
環はそれを見計らったかのように、その手で彼女の首筋、鎖骨を優しくなぞり、そのまま胸にまで到達した。それを追うように唇でも首筋、鎖骨をまるで味わうかのようにゆっくりとなぞっていく。
くすぐったいだけではない甘い感覚が深知留の全身を駆けめぐる。
「ふ……はぁ、た、まき……さん……や、あぁ……」
唇を塞がれていないのに、甘美な誘惑に浸食される深知留は言葉にならない声しか出せない。いつの間にか頭は朦朧とし、怖い、逃げなきゃ……そう思うことはできるのに体に力を入れることもできず、深知留は環の為すがままだ。
環は目を潤ませた深知留の顔を一瞥すると、彼女の胸に置いた手にそっと力を込めた。
驚いた深知留がビクリと体を震わせるが、環は構わずに続ける。
「やぁ……や……めて……」
深知留は何とか言葉だけでも抵抗を試みるが、環がそれを聞き入れる筈もなく。
そうこうするうちに彼の手が深知留のセーターの裾に掛かる……
深知留の中で恐怖心がしきりに警鐘を鳴らす。
「……怖い……環、さん……やめ…て……」
しかし、環は聞こえている風さえなく、服の裾をたくし上げて深知留の素肌に直に触れる。もちろんそれは乱雑にではなく、優しく撫でる様にだ。そして、ブラジャーに手を掛けながら環は彼女の白い首筋をきつく吸い上げる。
瞬間、
「……嫌ぁっ!!!!」
深知留の喉から悲痛な叫び声が上げられた。
それは、彼女がなけなしの力を振り絞った声だった。
その直後……
どうしたわけか、今までどんなに抵抗しても止まなかった環の動きがピタリと止まった。
深知留は自分を拘束する環の手が緩むと同時に、いつの間にか瞳にたまっていた涙をポロポロと零し始めた。
二人の間には重く静かな沈黙が流れ、深知留の荒げる呼吸音だけが辺りを支配する。
環は茫然自失の表情でただ深知留を見つめていた。
この時環は、一体、今まで自分が何をしていたのか、前後不覚の感覚に陥っていた。それはまるで、糸の切れた操り人形のように。
目の前にいるのは、乱れた服で瞳から涙をポロポロと零す深知留…………
そんな彼女を力尽くで押さえつけているのは紛れもなく……――
(俺は……今、何を……した?)
(深知留に……何を……)
「……環…さん……?」
深知留は未だ組み伏せられた状態のまま、不安そうな面持ちで環を見上げる。
環はそれから逃れる様にフイッと視線を外すと、まるで何もなかったかのように深知留の上からするりと降りた。
「……ごめん」
消え入りそうな声でそれだけ言うと、環はすぐに部屋を出て行った。
(環さん……なんで?)
深知留は震える手で自らの体を抱きしめながら、それしか考えることができなかった。
◆◆◆
サァァァァ…………
シャワーの単調な音だけが環の耳を支配する。
洋服を着たまま浴室に入った環は、シャワー口から吹き出す水にその身を晒していた。
その脳裏を過ぎるのは――乱れた服で涙をポロポロと零して怯える深知留。
「……畜生ッ!!」
環はやり場のない思いをぶつけるように、浴室の壁をドンと叩いた。
「あ……」
翌朝、結局あの後一睡もできなかった深知留が洗顔をしようと鏡を覗き込んだ時、それを見つけた。
首筋にあるのは鬱血痕……
(キスマーク……ついてる……)
深知留は鏡の中の自分を見ながらそれにそっと触れてみた。
色白な彼女の肌に、その色は鮮やかに映えていた。
(環さん……一体、どうしたんだろう?)
夕べ、寝ずに考えた疑問が再び深知留の中で蘇る。
しかし、同じように答えが出るわけではない。
「これじゃ……襟の広い服、着られないよ…………」
深知留はふぅっと一つ大きな溜息を吐いた。
◆◆◆
その日、深知留は大学には行ったものの真尋との話にも、実験にも身が入らないまま一日を終えてしまった。
憂鬱な気分のまま龍菱家に帰ると、深知留は玄関先で意外な人物と出会った。
「お久しぶりですね、深知留さん」
それは政宗だった。深知留はお見合いの日、初めて紹介されてから政宗とはそれ程の回数、顔を合わせてはいない。
「こんにちは、吉里さん。……こんなところでお見かけするのは珍しいですね」
「ええ。環様が忘れ物を取りに寄られると仰ったので一緒に」
「環さん……今、いらっしゃるんですか?」
深知留は思わず顔を顰めた。
「いらっしゃいますよ。今はお部屋だと思いますけど」
できれば今、深知留は環に会いたくはなかった。
しかしそれは環を恐れているからではない。
ただ会いたくない、それだけだ。
深知留は正直なところ、昨日の出来事にはまだいくらか怖さが残っていた。でもそれよりも、環に聞きたいことがたくさんあった。
けれど……今はまだ顔を合わせる気にはなれなかったのだ。
深知留は無意識のうちに踵を返していた。
「深知留さん、どこかお出かけですか?」
「あ……ちょっと……その、大学に用事を思い出しまして……」
深知留は適当な嘘を吐いて入ってきたばかりの玄関の扉に手を掛けようとした。
その時だった。
「環様と……何かあったのですか?」
政宗が深知留を呼び止めるように声を掛けた。
「いえ。別に……」
深知留はできるだけ自然に振り返って答えた。
しかし、
「何かあったと、その顔に書いてありますが?」
気づけば、そんな政宗の視線は深知留の首筋に向けられていた。
その視線の先にあるのは……
深知留の着ているタートルネックの端からわずかに見えるキスマーク。
「何も……ないです」
すぐにそれに気づいた深知留は、慌ててタートルネックを引き上げた。そして、政宗と視線を合わせられずに不自然にそれを外す。
「……そうですか。何もないのでしたら一点だけよろしいでしょうか?」
政宗はそんな深知留の様子などお構いなしに淡々と言葉を紡ぐ。
「環様との契約期間中は、行動を慎んでいただけませんか?」
「…………?」
突然掛けられた言葉に、深知留は外した視線をゆっくりと政宗へと戻す。
そして、話の内容がうまく飲み込めない様子の深知留に対し続けて投げかけられたのは、
「例えば……公衆の面前で誰かとキスをする、とか? そのようなことは謹んでいただきたいと申し上げているのです」
政宗の抑揚のない言葉だった。