その日から、深知留は心ここにあらずの状態となった。
 異変に気づいた鈴がすぐに、どうしたの? と声を掛けてくれたが、深知留は論文の追い込みで寝不足なだけだと答えた。詳しい事情を知らない鈴には何も言えないし頼れなかったから。
 学校でもそれは変わらず、セミナーには遅刻、真尋との話は上の空、先輩や先生から与えられた仕事もろくにこなせなくなった。
 こんな事じゃダメだ、と深知留は自身を何度も叱咤激励したが、空回りは続くばかりだった。そして最後は、実験中に普段では到底考えられないような致命的ミスを犯したのだ。
 いい加減見るに見かねた教授はそんな深知留を怒鳴り飛ばし、家に帰って頭を冷やしてこいと言った。
 心配した真尋は悩み事があるなら何でも聞くと申し出たが、深知留は話す気になれず断った。
 教授に叱られた後、そのまま研究室にいることもできず、かと言って龍菱の家に帰る気にもなれず、深知留は理工学部棟のリフレッシュルームで無駄な時間を過ごしていた。
「何やってるんだろう、わたし……」
 これまでに何度零したか数え切れない溜息が深知留の口から漏れる。
 呼気は全て溜息……そんな勢いだった。
 とその時、
 深知留の額にコツンと無機質な温かさが当たった。
 ふと視線を上げれば、そこにはココアの缶を持った蒼の姿があった。
「蒼……」
 蒼はそのココアを渡すと、深知留の向かいの席にどかりと腰掛けた。
「お前、龍菱さんと何かあったのか?」
「…………」
 開口一番核心を突いてきた蒼に、深知留は無言でやり過ごそうとする。
 が、それで引く蒼でもない。
「じゃあ、別の悩み事か? でなきゃ几帳面なお前が単純なミスを犯すはずないよな? ……実験中に薬品間違えたって? 教授にこっぴどく叱られたって話じゃないか」
「情報……早いんだね」
 何処で仕入れてきたのか、蒼は既に大方の事情を把握しているようだった。
「横居さん……凄く心配してたぞ」
 どうやら情報ソースは真尋らしい。
「真尋ちゃんに会ったの?」
「さっき、半べそかいて俺のとこ来たんだよ。自分が聞いても何も言わないし、このままじゃ深知留さんがおかしくなっちゃう、って。いい後輩で良かったな」
 蒼は言いながら先ほど経済学部のある棟までやってきた真尋を思い出す。
 酷く深刻な顔をして訪ねてきた彼女は開口一番蒼に「助けてください」と言った。何事かと思って順序立てて話をさせてみればそれは深知留のことだった。
「で、何があった?」
「…………」
「二十年も幼馴染みやってて、今更言えないこともないだろう?」
 やはり答えようとしない深知留だが、蒼も諦めない。
 悩みが深いほど、周囲には心配を掛けまいと貝のように口を閉じるのがこの幼馴染みの悪い癖だということを蒼は知っている。そして、こんな時はじっくりと時間を掛けて話をさせておかないと、最終的には体を壊すまで悩み続けるのだ。
 蒼は自分用に買ってきた缶コーヒーを飲みながら、ジッと黙って深知留の傍にいた。
「……あの、ね……」
 やがて深知留はゆっくりとその口を開く。
 その時だった。
 蒼は突如感じた振動にポケットから携帯電話を取り出した。
「悪い深知留、ちょっと……」
 深知留はどうぞ、と目で合図をする。
 蒼はそれから二、三言電話の相手と会話を交わすとすぐに電話を切った。
 しかし、「それで?」と蒼が話を聞く体勢に入ると携帯電話が再び振動した。
(年末だし……忙しいよね、蒼も……)
 深知留はココアをすすりながらその姿を無言で見ていた。
 そんな蒼がようやく腰を据えたのは、深知留がココアを飲みきる頃だった。
「ごめん、深知留。それで?」
「……ううん。やっぱりいい。大したことじゃないし、大丈夫」
 話を聞こうとした蒼に、深知留はゆっくりと首を振った。
「心配かけてごめん、蒼。でも大丈夫だから」
「深知留、俺のことなら別に気にしなくても……」
「本当に平気。それに、全然大したことじゃないから、もう少し自分で考えてみる」
 深知留は心配そうな面持ちの蒼をそう遮った。
 そして、なけなしの力で笑ってみせる。
「大体、いくら二十年一緒にいたって、蒼に女心の一つも分かるの? 分かったら由利亜ちゃんに手を焼いてないと思うけど?」
 いつものように蒼をからかう言葉を口にするが、そこに歯切れの良さも勢いもない。
「深知留、お前やっぱり……」
「蒼……わたしの心配する暇があったら、由利亜ちゃんの誕生日のことでも考えたら? もう二週間切ってるんだから。この前だって間に合わないって焦ってたじゃない」
 深知留は蒼に言葉を許さないよう続ける。
(蒼には負担……かけられないよ)
 それが深知留の素直な気持ちだった。
 学業も仕事も由利亜のこともあってただでさえ忙しい蒼に、単なる幼馴染みのよしみだけで深知留は負担を掛けたくはなかった。
「ほら、もう行って? こんなところで油売ってる暇ないんじゃないの?」
 深知留は蒼を促すように自らが席を立つ。
 そんな深知留を見ながら、蒼は彼女が我慢していることを悟っていた。
 しかし、深知留の性格上、今はこれ以上詮索しても逆にもっと口を噤んでしまうだけだと蒼は思った。
(またタイミングを改めるか……)
 蒼はゆっくりと席を立つ。
「深知留、あまり思い詰めるなよ?」
「……ありがとう」
 深知留は笑って蒼を見送った。








 翌日、深知留が大学の構内を歩いていると由利亜に呼び止められた。
 昨日の蒼に引き続き、夫婦揃ってよく縁があるものだと思う。
「由利亜ちゃん、こんなところでどうしたの?」
「今日、合格発表だったんですよ!! ちょうど深知留さんに電話しようと思ったところなんです」
「あ、そうか……」
 深知留は言われて初めて気づく。
 しかし、由利亜の表情を見ればその結果は分かった。
「合格、したでしょ?」
「ハイ。深知留さんのおかげですよ。ありがとうございました」
 由利亜は嬉しそうにニッコリと笑う。
 そのまま二人は場所を変えて構内のカフェへと行き、とりあえずの合格祝いに、と深知留は由利亜にケーキセットをご馳走した。
「美味しい!!」
 由利亜は顔を綻ばせてケーキを頬張った。
「試験の負担もとれたし、尚更じゃない? でもここのケーキね、有名なケーキ屋さんと提携してるから凄く美味しいのは確かなの。入学してから楽しみでしょう?」
「なんか……すみません。本当はお世話になったわたしが深知留さんにご馳走するべきですよね?」
「何言ってるの。合格したのは由利亜ちゃんの実力。ほら……良かったら、わたしのケーキも食べない?」
 深知留が差し出した自分のお皿に、由利亜は「良いんですか? でも、食べ過ぎかも」と嬉しそうに笑った。
 しかし、その表情をすぐに曇らせる。
「ねぇ……深知留さん。食欲無いんですか?」
 突然投げかけられた質問に「ダイエット中なの」と深知留は笑って嘘を吐いた。
 が、
「何か……あったんですか? 夕べ、蒼さんが心配してました。最近、深知留さんが元気ないけど何か聞いてないか、って。深知留さん……何だか少しやつれたんじゃないですか?」
「そう? 論文が忙しくて、少し寝不足だから……」
 深知留が寝不足だというのは本当だ。ただ、その理由が論文ではない、という話であるだけのこと。
 夜、考え事をしているといつの間にか朝になっている、そんな生活がここ二日ほど続いていた。もちろん、環は帰ってこない。以前のように必要最低限の用事をこなしに戻ってくる気配さえない。
 そして、由利亜の言う通り、深知留は食欲も無かった。
「深知留さん……なんか、悩み事あるんでしょう?」
「…………」
 由利亜の問いに、深知留は答えなかった。
「蒼さんに何か相談してみました?」
 由利亜は気にせず問いを重ねる。
 それにもやはり深知留は答えなかったが、代わりに、何でそんなことを聞くのかと不思議な顔を見せる。
 由利亜はそれに気づいた様子で少し慌てる。
「いや、その……わたしだったら何かあればすぐに幼馴染みの京に相談しちゃうから、深知留さんなら蒼さんかな、と思って」
「蒼には何も話してない」
 今度は深知留も答えた。
 すると、由利亜はケーキそっちのけでその身を乗り出す。
「もしかして……聞いてくれなかったんですか? 忙しい、とか言って」
「ううん。そうじゃないの……聞いてやる、とは言ってくれた。でも……」
「じゃあ、蒼さんに負担をかけたくないから言わなかった……そうでしょう?」
 由利亜から予想外に言い当てられた深知留は、思わずその目を丸くした。
「やっぱり。深知留さんらしいですね」
 由利亜はそれにふふんと得意げに笑ってみせる。
「わたしらしい……?」
「はい。いつも人のことばかり優先して自分のことは我慢しすぎる……深知留さんの癖でしょう? ほんの数ヶ月ですけど、見てたらよく分かりますよ」
 由利亜はまっすぐな瞳で深知留を見つめていて、深知留はそれから視線を外すことができなかった。