「深知留さん、わたしで良かったら少し話してくれませんか? 遠慮はいりません。今のわたしなら受験も終わったしドンと来いですよ! そりゃ蒼さんに比べればこんな小娘で頼りないでしょうけど……たぶん蒼さんには分からない女心ならわたしの方が強いはずです」
 由利亜はトンとその胸を叩いて、任せてください、と付け足す。
 その一生懸命な姿が妙に嬉しくて、深知留は思わず笑ってしまった。
 それに対して、「何かおかしかったですか?」と不安そうに聞く由利亜に、深知留は「そんなことないの」と答えながらも笑いを止められなかった。
 そして、夫婦揃って人が良すぎると、深知留は密かに思った。
 それから、気づいた時には深知留は由利亜に気持ちの内を話始めていた。
 由利亜たちと食事に出た晩から今日に至るまでの出来事に則して……
 それを誰かに話そうなんて深知留は思ってもいなかったのに、由利亜を見ていたら話してみようかな、と自然とそんな気分になっていたのだ。

「誤解だって……どうして伝えなかったんです?」
 深知留の話を聞き終えた由利亜はすぐにそう言った。
 むしろ、それしか言葉が出なかった。
「言った。でも、聞く耳持たない、って感じで……。環さん、忙しそうだし、それに……」
――すごく迷惑そうだった
 深知留はあの時の環の表情を思い出して、その言葉を飲み込む。
「それでも、ですよ。伝えることはきちんと伝えなきゃ!」
 由利亜は声をわずかに張り上げる。
 そんな彼女に深知留は静かに首を振る。
「もういいの……良いのよ由利亜ちゃん。誤解があっても無くても、わたしと環さんの関係は明日の夜には終わるの。だから、もう良いの……」
 深知留は消え入るように言葉を終えた。
 そう。明日は環と約束した十四日。
 明日の夜、パーティーが終われば仮初めの関係さえも終わる。
(それで……もう終わり)
 深知留は自分に言い聞かせるように思って、大きく一つ溜息を吐いた。
 由利亜はそんな深知留を見ながら、だったら、と切り出した。
「深知留さんは明日のパーティーが終われば、夢から覚めるみたいに龍菱さんへの気持ちも終えられるんですか?」
「…………」
 強く真剣な眼差しで投げかけられた由利亜からの問いに、深知留は視線を外すように俯いた。それはまるで、自分の心から目を背けるように。
 まさか由利亜にそんなことを聞かれるとは深知留は思ってもみなかった。
 由利亜はそんな深知留を引き続きジッと見つめる。
「深知留さん、誤魔化さないでください。好き、なんですよね? 龍菱さんのこと」
「好き……じゃない」
 深知留は由利亜に視線を合わせずに答えた。由利亜の目を見たら、自分が言ってはいけないことを口にしてしまいそうで怖かった。
 だから、答えながら深知留は自分に言い聞かせていた。
(好きじゃない……。好きになんてなったら……環さんは迷惑する)
 それが、考えて考え抜いた末に至った結論だった。
 さらに視線を落とした深知留に由利亜は静かに言った。
「嘘吐き」
 その鋭い語調に深知留は少し驚いて、わずかに顔を上げる。
 案の定、そこには怒ったようにも見える由利亜の顔があった。
「深知留さんの嘘吐き。好きじゃないなら、どうしてそんなに辛そうな顔するんですか?」
「……疲れてるだけ。寝不足って……さっき言ったでしょう?」
「違う。また我慢でしてるんでしょう? 好きなんて言ったら彼が迷惑する、とか考えて。そのくらい……わたしにだって分かりますよ?」
「…………」
 言葉を返せなくなった深知留に構わず、由利亜は続ける。
「お願い、深知留さん……きちんと龍菱さんと話し合ってください。優しい人なんでしょう? 相手の気持ちを常に考えてくれる人だって、深知留さん前に嬉しそうに言ってたじゃないですか。そんな人ならきっと話せば聞いてくれます。それに……我慢だけじゃ駄目です。時にはぶつかり合わないと。絶対後悔しますよ?」
 由利亜は深知留の心に訴えかけるように言った。まるで自分の事のように話す彼女の目はとても真剣だった。
「あのね、深知留さん。わたし……蒼さんが深知留さんと付き合ってるって誤解した時、我慢して身を引こうとしました。嫌なことに全部目をつむって、自分だけが我慢すればそれで済む……そう思ってました。でも、駄目なんですよ。苦しくて苦しくて……きっと我慢しきれなくて、深知留さんこのままじゃ壊れちゃいますよ?」
 由利亜はテーブルの上に置かれた深知留の手に、自らのそれをそっと重ねた。
 冷たい深知留の手に、由利亜の温かさが伝わる。
 深知留はゆっくりと由利亜に視線を合わせた。
「わたしの時はね、深知留さんが背中を押してくれたんです。わたしが壊れる前に。だから、深知留さんの背中はわたしが押します。幸せになってください……深知留さん。わたし、お姉ちゃんには幸せになってもらいたいんですよ。ね?」
 由利亜はニコリと微笑んだ。








「来ちゃった……」
 由利亜と別れてから数時間後、深知留はそこに立っていた。
 深知留の立つ場所……そこは帰宅ラッシュも過ぎ、閑散とした菱屋物産のエントランスホール。
 由利亜と別れた後、一人で冷静になり改めて良く考えた深知留は、自分なりの答えを導き出してここへ足を運んだ。
 その答えは、環と会って話をすること。きちんと向き合って、正面から話を聞いてもらうこと。
 今まで遠慮と我慢しかしてこなかった深知留にすれば、それは凄い行動力だった。
『我慢だけじゃ駄目です』
 最終的に深知留を後押ししたのは、由利亜のその言葉だった。
 小さい時から多英子を困らせないよう我慢することだけを考えてきた深知留は、いつの間にかそれが当たり前で、何に関しても自分が我慢をすればいいのだと思っていた。そうすれば全てが丸く収まるのだと信じていた。
 今回の事だって同じだ。自分が引いてしまえば、何もなかった事として終えられる、全ては巧くまとまるのだと思っていた。
 あの日、環と最後に話した後……
 深知留は自分が環の事を好きなのだと気づいたが、それを認めることはできなかった。
 もしも認めてしまえば、環に迷惑を掛けてしまうと思ったから。仮初めの関係としか思っていない相手に好意を寄せられても迷惑にしかならないと、思ったから。
 だから、深知留は必死で見て見ぬふりをした。気づいてしまったことにより、どんどん膨らんでいこうとするその気持ちを必死で抑えて、そんなことはない、と懸命に我慢しようとした。それで全てが丸く収まるのだと信じて。
 しかし、由利亜はそれでは駄目だと言った。いつか苦しくなって我慢しきれなくなる、と。
 それには深知留も納得させられた。確かに、今回のことは深知留自身でさえ耐えきれるかどうか自信がなかったのだ。数日ほど我慢しただけでこの調子では、例え無理をして耐えたとしても、由利亜の言うように何かが壊れてしまうということは簡単に予測ができたから。
 お蔭で、深知留は今までの気持ちをようやく吹っ切ることができた。
 そして、
(やっぱり、わたしは……環さんが好き)
 その気持ちを認めることもできた。抑えることをやめて、ようやく開放してやれた。
 そうしてしまったら、今まで陰鬱だった気持ちにも少しだけ光が差し始め、やるべき事もしっかりと見えた気がした。
 例え環の迷惑になるとしても、きちんと向き合って、話をして……でもその結果は、気にはなるが考えてはいけないと深知留は思った。そを考えてしまえば、また足が竦んでしまいそうだったから。
 だから深知留は考える代わりに願った。
 もう一度、環のあのお日様のような笑顔を見られますように、と。
 大好きな人の、その笑顔を思い出しながら。
(ありがとね……由利亜ちゃん)
 深知留は心の中で呟いてその一歩を踏み出した。








 社内案内図に沿って該当の階数でエレベーターを降りると、深知留は迷うことなく常務取締役室の前にたどり着くことができた。
 そのドアはわずかに開いており、耳を澄ませば衣擦れの音が聞こえる。
 深知留は中に環がいるのだと確信し、まずは一度安堵の溜息を吐く。忙しい人だから、環がここにいるのかどうか少し不安だったのだ。
 そして深知留は気持ちを落ち着けるように大きく一つ深呼吸をした。
 言うべき事は決まっている。
 誤解を解いて、そして自分の思いを伝える……
 ここに来るまで何度も何度も復唱した。だからとにかく今は正面からぶつかるだけ。
 深知留は覚悟を決めてその手を握りしめ、扉をノックしようとした。
 その時だった。
「環……」
 突如聞こえた女性の声に、深知留はピタリとその手を止めた。
(え…………?)
 一瞬にして、深知留は得体の知れない不安に飲み込まれる。
 彼女の耳がおかしくなければ、今確かに部屋の中からは環ではない誰かの声が聞こえた。
 増殖し始めた不安を確かめるべく、深知留はノックをしようとした手をゆっくりと下ろし、わずかに開くドアから恐る恐る中を覗く。
 少しの理性がそれはいけないことだと警告を発したが、深知留はもはや自身を止めることができずに覗いてしまった。
 そして中の様子が見えた刹那、
(――――!!)
 深知留は息を呑んだ。