「深知留、お疲れ様。助かったよ」
 帰りの車中、環は隣に座る深知留に労いの言葉を掛けた。
 ずっと窓の外を見たままの深知留は一度だけ、その視線を正面へと戻す。しかし、決して環の方は見ない。
 今日はずっとそうだということに環は気づいていた。
 例えこちらへ視線を向けても、環とは絶対に目を合わせようとはしない。
「こちらこそ、色々とお世話になってしまって。ありがとうございました」
 深知留から返ってきたのは、えらく他人行儀で儀礼的な言葉だった。その表情には作り物の笑顔が浮かべられている。
 つい先ほどまでと一緒だと、環は思い、思わず溜息を零したくなった。
 一見、花のような笑顔にも思えるが心は全く入っていない。それに気づけば、人形のようにさえ思えてしまう。
(もう前のように……笑ってはくれないんだな)
 環はずいぶん前に見た深知留の笑顔を思い出していた。
 同時に、酷いことをしたのだから笑ってくれなくても当たり前だと思う。
 そんな環の気持ちを知るよしもなく、深知留は窓の外へと視線を戻した。その表情からは火が消えるように笑顔が消える。
(役目を終えて……恋人の所へ早く戻りたいということか……)
 環は思って心の中で深い溜息を吐いた。
 彼もまた反対側の窓の外へと視線をやる。
 そのまま、二人が沈黙を続けているうちに車は龍菱家の前に着いてしまった。
「すまないが、今夜はこのまま会社へ戻る。明日からまた海外なんだ」
「そうですか。お忙しいんですね」
 またもや儀礼的な会話が交わされる中、助手席に座っていた政宗の合図で運転手が降り、深知留側のドアをガチャリと開ける。
 深知留は環に背を向け、カツンとヒールの音を立てて車から足を降ろす。
「環さん……わたし、明日の朝には龍菱の家を出て行きます。……お世話になりました」
「そうか……」
 振り向きもせず言った深知留に、環は呟くように答える。
 そういう約束だったのだから仕方がないと思いながら、環の中で言いようもない寂しさが溢れ出す。
 このままその背を抱き留めてしまいたいと思うが、環は理性を総動員してその欲望を抑え込む。
「だったら、ここで……お別れだな」
「そう……です、ね」
 深知留の声はわずかに上擦っていた。しかし、環はそれには気づかない。
 いつの間にかこみ上げてきた物を収めようと、深知留は奥歯をギュッと噛みしめる。
「深知留……」
 再び掛けられた声に、
「なんですか?」
 深知留は振り返らずに答える。今度は平静さを保って答えることができた。
「君は……」
――恋人の所に戻るのか? 
 そう聞こうと思ったが、環は愚問だと思い止める。
「……何でもないよ」
 そんなことを聞いて今更どうにかできるわけではない。「そうですよ」と深知留に答えられれば、自分がさらに辛い思いをするだけなのだと環は思った。
「お仕事……あまり…無理をしないでくださいね」
「……ありがとう」
 深知留は環の返答を聞くと、大きく一つ息を吐いて思いを吹っ切るように車を降りた。
 そして、一度だけ振り返る。
 最後くらい笑おうと思って深知留は精一杯の努力をする。
「さようなら、龍菱さん……」
(――――)
 その一瞬、環は深知留の表情に目を奪われた。
 それはまるで泣いているかのような何とも哀愁の漂う笑顔であった。
 今までの笑顔とは明らかに違うそれに、環は驚いたような顔で深知留を見つめる。
 しかし、深知留はすぐにその場を走って屋敷の玄関へと向かった。
「深知留……」
 自分を呼ぶ声が背中で聞こえた気がしたが、深知留は聞かない振りをした。
 環は深知留の背中を見ながら、無意識のうちに彼女を追うように伸ばした手を空中で握り潰した。
(もう終わったんだ……何もかも……)
 そう噛み締めるように自分に言い聞かせながら。








 部屋に入った深知留は崩れるように座り込んだ。
「ふ……あぁッ……あぁぁぁッッ…………」
 堪えきれない嗚咽が涙と共に零れる。
(終わった……本当に、何もかも……終わっちゃった)
 それからしばらく、深知留は床に座ったまま嗚咽を漏らし続けた。
 何とか声を出さないように口を押さえたが、それでも抑えはきかなかった。
(泣いたって仕方がないじゃない……泣いたって……何も、変わらないのよ……)
 そう思うのに、悲しくて、寂しくて、涙は止まらない。
 終わった……その言葉を繰り返すたび、涙が込み上げてきた。
『だったら、ここで……お別れだな』
 背中で聞いた環の声を思い出す。
(わたし……うまくお別れ言えたかなぁ……)
(さようならって……ちゃんと笑って言えたかなぁ……)
 今更だが、もう一度笑ってみようとして深知留は口角を上げようとするが、漏れ出る嗚咽を抑えようと唇を噛みしめてしまうばかりでそれは叶わない。
 そして深知留は、最後に見た環の顔を思い出す。
 自分がさようならを告げた後の環の顔……それはどこか傷ついたような、悲しみを含んだような顔をしていた。
(なんであんな顔……したんだろう?)
 もちろん、考えても分からない。
 ただ、深知留は
(やっぱり、最後くらい……お日様みたいな笑顔、見たかったな…………)
 そう思った。
 諦めたはずなのに、思わずにはいられなかった。
 やがて、目がパンパンに腫れ上がるまで泣いてようやく涙が引いた頃、深知留はよろよろと立ち上がり、バスルームへと向かった。
「……早く、夢から……覚めなきゃね……」
 深知留は背中に手を伸ばし、ドレスのファスナーを降ろした。








「随分辛そうな顔ですね」
 後部座席に乗り換えた政宗は、窓の外へ視線を向ける環に言った。
「好きなんだろう、こういう顔が」
 環は視線を動かさずに淡々と答える。
 そんな環に、
「最近、そんな顔ばかりされているから飽きました」
 政宗はシレッとした顔で言った。
「ワガママなんだな、お前は」
 環は肩を竦める。
 それから二人の間には長い沈黙が流れた。
 環も政宗も何も話さなかった。
 環は窓の外へと視線を遊ばせ、政宗はただ物思いに耽る環を見ていた。
 やがて、会社へと近づいた頃、
「よろしいんですか……せっかく捕まえた小鳥を手放してしまって」
 政宗はそう言葉を紡いだ。
「良いも悪いも無いさ」
 環はすぐに答えを返したが、相変わらず窓の外を見たままだ。
「それに、手放したんじゃなく、返した、の間違いだろ。鳥籠を開けて、深知留を本来あるべき場所へ返した、それだけだ……。随分無理をして囲ってしまったよ」
 本当は深知留に相手がいるという事実を知った時点で、すぐにでも彼女をその相手の元へ返してやればよかった。それがケジメの付け方だというのも分かっていた。
 しかし、環にはそれができなかった。
 彼を支配したのは、ただ子どものような我意。
『今投げ出されても俺も困るんだ』
 そんな台詞を口にして、そう言えば優しい深知留が断れないのを分かっていて無理矢理囲おうとした。
 今更遅いと分かっているのに、深知留を誰にも渡したくなくて。
 馬鹿げたことをしているのも、虚しいだけだということも百も承知だった。それでも、そうまでしても環は深知留を手放したくなかった。
――契約が切れるまでは深知留は自分のモノ
 そんな儚い、子供じみた夢を見るために。
「環様……」
「もういい……もう、いいんだ」
 言いかけた政宗の言葉を許さないとでも言うかのように、環は少し声を張り上げた。
「何もかも、終わった。長い夢を見ていただけだ。……もう俺に、拘束力はないからな」
 全てが終わったのだから深知留はこれで幸せになれる……そう思えば本望だと環は自身に言い聞かせる。
 ただ、その幸せが環ではなく他の男の手でなされるというだけのこと。
 それでも、深知留が幸せであるのならば……
「政宗、鳥は結局、籠の外の方が似合いだよ。人は鳥が空を自由に飛び回る姿に魅せられるんだ。それを檻に囲って楽しみたいと思うのは、鳥にとっては可哀想な話さ。それが既に他の者の飼い鳥なら、尚更な」
 環は言葉を終えると共に、深い深い溜息を零した。