「ちょっと待って、深知留ちゃん!」
 大きな荷物を抱えて玄関先に立つ深知留を、鈴は必死で止めていた。
「一体どういう事なの!?」
 鈴はややパニックを起こしている。しかし、それも無理はない。
 昨晩は仲の良い恋人同士だったのに、ひと晩明けてみればその深知留は荷物をまとめて出て行くと言い出したのだ。
 もちろん、深知留は理由もなく出て行くとは言っていない。
 もはや時効だろうと思い、鈴にはきちんと順を追って事のあらましを説明した。
「深知留ちゃん!」
 鈴は深知留の腕を掴んだ。
「本当に……本当に契約上の関係でしかなかったの?」
 深知留はそれにゆっくりと頷き、そのまま深々と頭を下げた。
「ごめんなさい、鈴さん。鈴さんや雅さんを初めとして、皆さんを騙していたことは本当に申し訳なく思っています」
「ねぇ、深知留ちゃん。わたしは謝罪なんかして欲しくない。本当のことが聞きたいのよ」
 言葉を荒げる鈴に、深知留は答えずにただ頭を下げ続けた。
 鈴はそれでも答えが欲しくて、深知留の両肩を掴んで揺する。
「だったら……あれも全部嘘なの? わたしの傍に一緒にいてくれるって言った、あれも全部嘘だったの!? 深知留ちゃん!!」
 今度は、深知留は大きくかぶりを振る。
「今更何を言っても信じてもらえないかも知れませんが……あれは嘘偽り無く、本当です。知り合いじゃなく……わたしがトラウマを抱えてるんですよ。だから、鈴さんのこと……他人事とは思えなくて、それで放っておけなかったんです」
 深知留は鈴の手を優しく下ろすと、荷物を背負った。
 そして、鈴に背を向ける。
「深知留ちゃん……本当に、環さんのこと…何とも思ってないの? 環さんにケーキを作ってた深知留ちゃん……本当に嬉しそうだったわよね? それでも……何とも思っていなかったの?」
 尋ねられた言葉に、深知留は小さく一つ溜息を吐く。
 なんでみんな同じ事を聞くんだろう、と笑ってしまいそうになる。
(蒼も由利亜ちゃんも真尋ちゃんも鈴さんも……みんな、みんな同じ事…………)
 深知留は、そのまま振り返らずに答える。
「パーティーが終わるまでの関係……環さんとは、最初からそういう約束でした。それに……」
 深知留は途中で言葉を止めた。
 いや、止めざるを得なかった。
 夕べあれだけ泣いたのに、またパタタっと涙がこぼれ落ちたのだ。
 なんでこのタイミングで涙が出るのか、深知留は自分にうんざりする。
「それに?」
 途切れた言葉を鈴が促す。
 深知留は何とか呼吸を整える。
「環さん……は、恋人が……いますよ? 本当の……恋人……」
 言い切らないうちに、鈴は深知留の肩に手を掛ける。
 ダメだ、と深知留が思うより先に、鈴は深知留を無理矢理振り返らせた。
「……深知留ちゃん?」
 深知留は慌てて涙を拭う。
「ごめ……なさい。これはその、目に塵が入っちゃって……」
「深知留ちゃんやっぱり……」
「違うんです。何でもないんです!! ……そういうわけですから、わたしはこれで」
 深知留は鈴を振りきって、龍菱の屋敷を飛び出した。
 鈴が伸ばした手も届かず、玄関扉は重々しい音を立てて閉まる。
 深知留が去った後、
「……ねぇ、深知留ちゃん……そんな風に泣いて……何でもないわけ、ないじゃない……。納得できるわけ……ないじゃない」
 既に消えてしまった深知留の背中に話しかけながら、鈴はその爪が掌に食い込むほどに手を握りしめた。








 十二月十六日――
 深知留はカレンダー上のその日付をボーッと眺めていた。
 今日は深知留の誕生日である。しかし、彼女がいるのは大学。目の前に広げられているのは論文ファイルが開かれたパソコンと数々の資料。
(誕生日が土曜日なんて……ホント運が悪い)
 深知留は大きな溜息を吐く。
 結局アルバイトの一つも捜す暇が無かった深知留は、今日も朝から何もすることがなく、家にいるのも精神的に落ち着かなくて学校へ来てしまった。
 論文でも書けばいい、と思ったが、パソコンに向かってもそれは数文字書き進めるのがやっとで全然進まない。
 深知留は再び溜息を吐いて、机の上に広げた資料に手を掛けた。
 気分を切り替えて実験データを整理し、入力をしようと思うがそれも始めてすぐに計算が合わなくなる。
 眉間に皺を寄せながらデータと睨めっこしていると、深知留は思いの外すぐに計算ミスに気づく。
「そういえば、環さん……ここが違うって言ってたよね……」
 深知留の口から無意識にそんな呟きが零れた。
 言ってすぐ、深知留は記憶を振り切るように、かぶりを振る。
(駄目……もう忘れよう……)
 そっと自分に言い聞かせる。
 そしてまた別の資料を持ち出し、今度は円グラフやら棒グラフやらの図表を整えていく。
 順番にパソコンの上で並べ替えていくと、
「環さん……確かこっちが良いって言ってた……」
 再び深知留は呟いた。無意識のうちに。
 またもやすぐに気がついて、今度は持っていた資料をギュッと握りしめる。
 その圧力に紙はクシャッと音を立てて歪む。
「環さんじゃない……龍菱さん、でしょう? いつまで夢見てるのよ、わたし……」
 深知留は大きめの独り言を零した。
 環と離れてから二日が過ぎて流石に涙も出なくなったのに、記憶だけは消えないことに恨めしささえ覚える。
 良い夢を見たって起きてしまえば忘れてしまうのに、どうして覚めた今も覚えているのだろうと嫌になる。
 とその時、机の上に置いてあった携帯電話が震え、メールが届いたことを告げた。
 深知留は一度携帯電話に視線を送り、小さく溜息を吐く。
 また蒼か、と思った。
 蒼は夕べから電話にメールに深知留の所へ執拗に連絡を入れていたのだ。
 恐らく心配してのことなのだろうが、今の深知留にすれば少し放っておいて欲しかった。事情を知る蒼と話せば弱音を吐いてしまうのは分かっていたし、また泣いてしまいそうだったから。
 夕べ遅く、たまりかねた深知留は「しばらく話したくないの」とだけ蒼にメールを送っていた。それから、電話もメールも止んだと思っていたのに……
 深知留は携帯電話を手に取り、受信ボックスを開く。
 しかし、そこに蒼の名前はなかった。メールの差出人は多英子。
 目を通せば、そこには多英子の近況を知らせる文章と深知留の近況を尋ねる文章が綴られている。その最後には『龍菱さんとは順調?』と書かれていた。
 事情を知らない多英子がそのような疑問を投げかけるのは至って普通のことであるが、今の深知留には少しばかり酷なことである。
(そっか……お母さんにも別れたって言わなきゃだよね……。なんて言い訳しよう……性格の不一致? それとも……)
 深知留は返信ボタンを押して文章編集画面を開きながら、当たり障りのない言い訳を考え始めた。
 その時だった。
「あれ、深知留さんいたんですか?」
 ガチャリと研究室のドアが開く音がして、真尋がひょっこりと顔を見せる。
「真尋ちゃん……どうしたの?」
 深知留は驚いて、思わず席を立つ。
「ちょっと忘れ物しちゃって……深知留さんこそどうしたんですか?」
「論文、書こうと思ったの。でも、なかなか進まなくて……」
 真尋は自分の席まで行くとガサゴソと探し物を始める。
 そんな彼女は今日、いつにも増して可愛らしい支度をしている。それを見て、深知留はあることを思い出していた。
「ねぇ、真尋ちゃん……確か今日が合コンの日だっけ?」
「そうですよ〜。もしかして、飛び入り参加希望ですか?」
 真尋はいくつかのファイルを広げながら冗談半分に言った。どうせ「行かない」と言う返答が来ると決めつけて。
 しかし、
「参加してもいい……かな?」
 すぐにそう答えた深知留に、真尋はピタリとその動きを止める。
 そして、ゆっくりとその顔を持ち上げて深知留へと向けた。
「深知留さん、それ本気……ですか?」
 その表情は驚き一色だった。
 それも無理はない。今まで合コンに誘っても、深知留は一度たりとも乗ってきたことはなかった。今回も決して乗り気ではなく、むしろその気など微塵もない様子だった。確かに真尋は社交辞令として、当日飛び入りでも良いと言ったが、まさか深知留がそれを本気にしているとは思ってもみなかったのだ。
「もちろん本気。やっぱり……当日だったら迷惑、かな?」
「だって深知留さんには龍菱さんが……」
「彼とは何ともないって言ってるじゃない。真尋ちゃんの言うように、誰かと遊んでみるのも良いかな、と思ったの。そういうのもありかなって……駄目?」
 深知留は真尋の言葉を遮ってニコリと笑って見せた。