「その手を離してもらえるか?」
 そんな声が聞こえたかと思うと、深知留の体は凄い力で後ろへと引かれる。
 驚いた明智は思わず手を離し、深知留の体はそのまま誰かに抱き留められる。
 その瞬間、深知留は今自分の後ろに誰がいるのかを理解した。
 習慣とは恐ろしい物だと思い、
「環……さん」
 深知留は振り返りながらその名を呼んだ。
「どう見ても彼女は嫌がっていたようだが?」
 環はそんなことも構わず、明智に言葉を投げかける。
「突然出てきて何だよ、あんた……余計な口出しすんなよ」
 邪魔をされた明智は不機嫌極まりない口調で、眼光鋭く環を睨み付ける。
 そして、再び深知留の手を掴む。
「深知留ちゃん……いいから行こう?」
「…………」
「こんな関係ないヤツ放っておいてさ。深知留ちゃん、ね?」
「…………」
 返事をしない深知留に、明智はなおも強引に彼女の腕を引く。
 しかし、
「深知留を離せと言ったのが聞こえなかったのか?」
 明智に答えたのは明らかに怒気を孕んだ環の声だった。



 ◆◆◆



 深知留は今繁華街のはずれにある公園にいる。
 あのまま環は呆気にとられる明智をその場に残して、深知留を引きずるように連れ去った。
 そしてこの公園に来たままお互い一言も話していない。
「もしかしてあれが恋人なのか?」
 先に沈黙を破ったのは環だった。
「こんなところで何してるんですか? 海外に行かれたんじゃなかったんですか?」
「聞いているのは俺だ」
 答えずに別の質問を返した深知留を環は鋭い視線で見る。
「だったら……なんですか? た……龍菱さんには関係ないじゃないですか」
 深知留は環を見たくなくて外方を向く。
「もっと相手を選んだらどうなんだ?」
「…………」
「無理矢理ホテルに連れ込もうとする人間と付き合うのはどうかと思うが?」
「…………」
「聞いているのか、深知留」
 答えない深知留に痺れを切らした環は溜息を吐く。
 一方の深知留はいつの間にかモヤモヤとした物を心の内に募らせていた。
 もう関係のない環にそんなことを言われる筋合いもないし、口出しなどして欲しくなかった。
「聞いてますよ。でも、関係ないでしょう……龍菱さんには。それに彼は恋人じゃありません」
 深知留は外方を向いたまま素っ気なく答える。
 今の深知留は一刻も早くこの場から逃げ出したかった。
 何よりもう、環に自分に構って欲しくはなかったし、できれば今、会いたくもなかったのだ。
 だって、
(もう望みはないのに……なんで今更……)
 これ以上は一緒にいたって苦しくなるだけだったから。
 一生懸命忘れようと努力している所なのに、それを掻き乱して欲しくはないのだ。
 それなのに、
「だったら恋人はどうしたんだ。君は俺との契約を終えて彼の元に戻ったんじゃなかったのか?」
 環は深知留の気持ちなどお構いなしに彼女の心へズカズカと踏み込んでくる。
 深知留はもう限界だった。
「戻ったって……恋人ってなんですか? それに……そんなこと、龍菱さんにはどうでもいいことでしょう?」
 呟くように答えると、深知留は一度だけ環の方を見た。
「助けていただいて、ありがとうございました。わたし、これで失礼します。もう二度と、お会いすることは無いでしょう」
「待ってくれ、深知留」
 一礼をしてさっさとその場を去ろうとした深知留の腕を環は掴んだ。
「すまない……深知留。俺はそんな話がしたいんじゃないんだ。……君を問いつめたくてここに来た訳でもない。だけど、あの男を見たらつい……」
「離して……ください」
 深知留は俯いたまま呟くように言うと、一つ大きく呼吸をして環を振り返る。
 深知留は自らの内に溢れかえるモヤモヤとした気持ちを、もはや止めることができなかった。
「今更……今更何なんですか。わたしと龍菱さんの関係はもう終わったはずです。それに、わたしはこれ以上お話しすることなんてありませんから!」
 少し声を張り上げた深知留が、環の掴んだ腕を振り払おうとする。
 しかし、
「分かってる。今更だってことも、俺たちの関係が終わったということも」
 環は深知留の腕を掴んだまま放そうとはしない。
「だったら、もういいじゃないですか……」
 言って深知留は力なく俯いた。
 既に終わったこと……それに未だに振り回されている自分が酷く惨めに感じられたのだ。
「……気が済んだのなら、離してください」
 深知留は再び環から腕を振り切ろうとした。
 が、
「それはできない」
 環は深知留の腕を放すことなくそのまま力ずくに引き寄せる。
 抵抗も叶わず抱きしめられた拍子に、よく知っているフレグランスの香りが深知留の鼻腔をふわりと刺激する。そして、やはり知っているぬくもりが彼女を包み込む。
 たった二日しか離れていなかったのに、懐かしさ、という感情が深知留の中で一気に増殖する。
 でも、
「……な、何するんですか」
 深知留は理性をフル活動させて抵抗をする。
(この人には恋人がいるの……)
(お願い……これ以上、掻き乱さないで……)
 何とかその腕から抜け出そうと深知留はその身を捩る。しかし、それでも環は離してくれようとしない。
 そして、
「深知留、俺の恋人になって欲しい」
(…………)
 環の発したその言葉に、深知留は一瞬にしてその動きを奪われる。
 しかし、すぐに冷静になり、
「……龍菱さん……何の冗談ですか? もうお約束は果たしました。また恋人役が必要なら、他を当たってください。わたしにはもう務め切れません」
 深知留は適切と思われる対応を返す。
 だが、環は……
「違う。恋人役なんて必要ない。今度は本当の恋人になって欲しいんだ」
 深知留を抱きしめる腕により一層力を込めた。
「…………」
 今度こそ、深知留は何も答えられなかった。
 構わずに環は続ける。
「君に恋人がいると分かって……一度は諦めようとした。でも……でも駄目なんだ。俺には君が必要なんだと思い知らされた」
 環が何を言っているのか、自分が何を言われたのか、深知留はすぐには理解できなかった。
「何を言ってるんです? だって貴方にはミチルさんが……」
 思わず零してしまった名前に、深知留は慌てて口を噤む。
「やはり……見たんだね? パーティの前の晩、君は会社に来たんだろう?」
「…………」
 深知留は自分の失態に気まずい顔をして俯く。
「政宗から聞いたよ。あの日、深知留が会社に来ていたと。そして、泣きながら帰って行ったとね。でもね、君は誤解している」
 深知留は今まで下げていた顔をわずかに上げる。
 環のまっすぐな視線と深知留のそれが合う。
「彼女は……ミチルは恋人なんかじゃない。彼女の名前は路流みちる麗子れいこ……以前会社の秘書室にいて、確かにそういう関係だったこともあるが、もう随分前に終わってるんだ。今は、別の人と結婚して子供もいる」
「え……?」
 それまで黙って聞いていた深知留は思わず声を漏らしてしまった。