あまりの展開に深知留の理解は追いつかない。しかし環はそれでも構わずに話を続ける。
「でも彼女は今、その相手とうまく行かなくて離婚調停中なんだ。それで子供の親権を争っていて、俺はその相談にのっていただけだ。頼るところがないと言われて、好意にしている弁護士を世話した。本当にそれだけなんだ」
「だって……あの日、抱き合ってて………」
「それも誤解だ」
 深知留が言いかけた言葉を環は止めた。しかし、深知留の視線は再び下がってしまう。
 あの日、確かに深知留は確かに見たのだ。泣き濡れる彼女をしっかりと抱きしめる環の姿を。
「あの日は、子供の親権が旦那側に持って行かれそうで、彼女が相当情緒不安定になっていてね。落ち着かせるためにああしただけなんだ」
 環は深知留の頬に手を当てて上を向かせる。
「こんな風に愛情を持って抱きしめたわけじゃない。信じて欲しい……。それから、深知留……今更と思うかもしれないが、俺に謝罪と話をする機会をくれないか? もちろん、君に恋人が居ることは分かっている。だけど、一度だけでいい、俺にチャンスを与えて欲しい」
 環の真剣な視線に深知留は否応なしに捕まった。
「あの日、俺が深知留に酷いことをした時のこと……覚えているか?」
 あれは……そう、環が深知留を無理矢理襲った日のこと。
「まずはあの時のことから謝罪をしたい。……あの時、俺はどうかしてた。街中で見た深知留と恋人のことが頭から離れなくて……単に女が欲しかったなんて嘘なんだ。あの時俺は深知留が欲しくてたまらなかった。深知留が既に他の男の物だなんて……どうしても認めたくなくて、たとえ力尽くでも自分の物にしたかった」
 それに……と言いかけて、環は一度言葉を止める。
 言葉を選んでいるのか、考えるような仕草を見せる。
 深知留は黙って耳を傾けている。
「あの翌日、深知留が一生懸命恋人のことを説明してくれた時は……もう俺には余裕も冷静さも無かった。君が必死に恋人を庇っていると思ったら、それが許せなくて腹立たしくて。つまらない嫉妬心だけに支配されて、深知留に酷い言葉もたくさん言った……すまないと思っている。本当はその時に君を恋人の元へ返せばよかったんだと思う。だけど、俺は深知留を手放せなかった。“困る”そういえば深知留は傍にいてくれると思って、その言葉で縛ってしまった」
 環は深知留の頬に添えた手に、わずかばかり力を込める。それが、温かさとして深知留に伝わる。
 温もりと同時に伝わるのは、その時の出来事と環の思い……
「案の定、君は俺の傍にいてくれたけれど、そんなことが許されるわけはなくて、俺はあのパーティーが終わった日、深知留の幸せを思って手放すことを選んだ。君が恋人と幸せになってくれればそれで良いと自分を納得させたよ。いや…違うな……本当は、無理矢理にでも納得して俺は逃げようとしたんだ。でも……駄目だった」
 環は再び言葉を止め、意を決するように一度大きく息を吐く。
 今の環の言葉にいつものような切れの良さはない。スムーズさも余裕もない。それでも、言葉を一生懸命選んで話そうとする真剣さだけは伝わる。
「深知留を忘れようとすればするほど、思い出すのは君のことばかり。この二日間、仕事も何も手に付かないんだ。大切な会議に出ていても商談をしていても、それどころか食事をしていても寝ていても……考えるのも思い出すのも、思考は全て君のことばかりだ。もう自分でもどうしようもない。だから……俺は、もう逃げることをやめにした。けじめをつけに来たんだ」
 環はもう片方の手も深知留の頬に当てて、冷えたそれに温もりを与える。
 そして、環の真剣な視線は再び深知留を捕らえる。もう瞬きさえできない。
「深知留、できることなら、契約なんかじゃなく俺の本当の恋人になってほしい」
 言われた言葉を理解するのに、深知留はしばらくの時間を要した。
 理解しきれないうちに、環は次の言葉を囁く。
「俺は深知留が好きなんだ。……ずっと、君の傍にいたい。いや、君に俺の傍にいて欲しい。本当は今、許されるのなら君を恋人から奪っても連れ去りたいと思ってる。これが自分勝手なことだと、子供じみた我が侭だということも理解している。でも……ごめん。俺はそれでも深知留が欲しいと思ってる。君は……そんな俺を軽蔑するか?」
 自信がなさそうにゆっくりと言葉を終えた環。
 深知留はそんな環をじっと見つめている。
 二人の間に短い沈黙が走る。
 やがて、深知留が環に返したのは……
 ただ、ゆっくりとかぶりを振ることだけだった。
 軽蔑なんてするわけがない……環の思いを受け止めた深知留は本当は声を出してそう伝えたかった。でもこの時、彼女は声を出すことが叶わなかったのだ。
 声の代わりに零れ出るのは、色々な感情が混じった涙ばかりで。
「ごめん、深知留……俺はまた君を困らせてしまったね。泣かせるつもりはないんだ」
 環は困った顔で深知留の涙をそっと拭ってくれる。
 そして、今まで彼女の頬に添えていたその手をゆっくりと離す。
 環は思った。
 今また自分は深知留を追いつめたのだと。心優しい彼女に、無理を言ったと。
「俺の勝手な感情を押しつけたことは謝る。こんなことを言えば君が困るのだということも……最初からわかっていた。でも、けじめとしてどうしても聞いて欲しかった。ごめん深知留……もう泣かないでくれ。俺は君を苦しませるつもりは……」
 環の言葉を、深知留は再び一生懸命にかぶりを振って遮る。
 そして深知留は、今にも自分から離れていきそうになる環のコートを力強く掴んで放さなかった。
「深知…留……?」
「わたし……わたしに、恋人がいるなんて……勝手に、決めつけないでください」
 深知留は嗚咽を抑えるように環のコートを掴む手に力を込める。
「やっぱりあの日……わたしの話を、聞いて…なかったんですね」
 そう言って深知留が見せるのは泣き笑いのような顔。
「もし…わたしに、キスするような恋人がいたら……初めから、恋人役なんて……受けていません。自慢じゃないけど……わたし、恋愛事に……そんなに、器用じゃないですよ?」
「え……? じゃあ……」
 言いかけた環の唇を、今度は深知留はそっと人差し指で塞ぐ。それはまるで「駄目です」とでも言うかのように。
「今度はわたしに……もう一度、お話をさせてください」
 深知留はそう言って、自身の涙を拭う。
「あの日、わたしは……キスなんてしてません。一緒にいたのは……正真正銘の、幼馴染み…です。庇ったわけでも……何でも…ありません。彼は、別に……素敵な相手が、いるんです」
 深知留はそこまで言うと、どうにもこうにも止まる気配のない涙を自らの手で再び拭って呼吸を整える。
 深知留自身もけじめをつけようと、そう思って。
 そして、
「環さん、わたしが傍にいたいのは……あなたです。許されるなら……ずっと、ずっと環さんの傍にいたい。環さんの隣に置いて……くれますか?」
 もう二度と呼ぶことはないと思っていた“環さん”という呼称を、深知留は噛み締めるように紡いだ。
 その直後、環は返事をする代わりに深知留を苦しいほどに抱きしめた。
 だが、深知留はすぐにイヤイヤをするように環から体を離して、しっかりと彼の顔をその視界に捕らえようとする。
 だって……目の前にあるのは、一度は諦めたはずの愛して止まない人の顔だったから。それも深知留が大好きな、あのお日さまのような笑顔だったから。