時は少々遡る――
 蒼と由利亜は信号の変わる横断歩道をもどかしい気持ちで待っていた。
 深知留が見えたのは上下合わせて六車線もある車道の反対側……この道を渡らなければ彼女の元へ行くことはできない。
 いつまで経っても青にならない信号に、蒼も由利亜も気ばかりが焦る。
 そしてようやく信号が青になった時、由利亜は勢いよく走り出そうとした。
 が、
「由利亜待って……」
 蒼は由利亜の腕を引く。
「蒼さん、何やってるんです? 早く行かないと深知留さんが!!」
 焦る由利亜は声を荒げる。
 しかし、対する蒼は悠長に何かを眺めているようだった。
「蒼さん!!」
 更に声を荒げる由利亜に、
「由利亜、戻ろう……」
 蒼は静かに言った。
「え? 何言ってるんです!?」
「大丈夫。深知留はもう大丈夫だから」
 全然納得のいかない様子の由利亜を、蒼は理由も述べずに元来た道へと誘導する。
 車に戻ると、竜臣が「もうよろしいのですか?」と後ろを振り返った。
「いいんだ」
「何が良いんですか! 深知留さんに何かあったらどうするんですか!? 蒼さんの薄情者! 人でなし!」
 事情が飲み込めない由利亜は苛々を募らせて蒼を捲し立てる。
 しかし、蒼はそんなことお構いなしだ。
「龍菱さんが止めに入ってた。だからもう、なるようにしかならないさ」
「菱屋のご子息が……そうですか。それでは確かに、後は彼ら次第ですね」
 蒼の言葉に、竜臣までもが同調した。
 しかし、由利亜はそうはいかない。
「余計駄目じゃないですか! 龍菱さん、恋人いるんですよね? 蒼さんそう言ってましたよね!? そんなのド修羅場ですよ!?」
「それ……俺の勘違いだったんだ」
「はい?」
 由利亜の頭の回り中にもはや数え切れないほどのクエスチョンマークが飛んでいる。
「由利亜様、詳細は帰りながらお話ししましょう」
 そんな様子の由利亜を見ながら竜臣はクスリと笑みを零した。



 ◆◆◆



 車が動き出してすぐ、蒼は由利亜に順を追って説明してくれた。
 幼馴染みを思った蒼は事前に竜臣にある命を下していたのだ。
――龍菱環の女性関係詳細を洗って欲しい
 深知留の事情を伝えると、竜臣はすぐに調べてくれた。しかし核心となる情報は上がってこず時間ばかりが過ぎ、やがてパーティーも終わり、深知留も環との契約を終えてしまった。
 しかし、諦めずに調べを続けた結果、竜臣は夕べ遅くに蒼にある報告書を上げたのだ。
 龍菱環が関わっている女性は昔の恋人で、離婚調停で揉めている彼女に弁護士の世話をしているだけだ、と。
 それが分かった段階で蒼は誤解だけは解いてやろうと深知留にすぐさま連絡を入れた。
 しかし、彼女は蒼と話そうとさえしてくれない。
 嫌なことがあると閉じこもってしまうのが彼女の癖であることは知っていたが、あそこまで閉じこもられるとは蒼も想像していなかった。
 最後は流石の蒼も手も足も出せなくなった。
 さてどうしたものかと思っていた矢先に、今ほどの出来事だったのだ。
 この先、どう転ぶのかはもう蒼の手出しするところではない。
「あの二人……うまくいきますかね?」
 話を一通り聞き終えた由利亜は、願うように蒼に尋ねる。
「どうだろうな」
 どう転ぶのか、最終的な結末は蒼にもはっきり言って分からなかった。
 ただ、竜臣の上げた情報では海外出張に出かけていたはずの環が今この時日本のこの場所にいるのだから、大方は予測できる。
「由利亜はどう思う?」
「うまくいってほしいです……いいえ、うまくいくに決まってます!」
 蒼はそんな由利亜の言葉を聞きながら、窓の外を見上げて静かに微笑んだ。
(深知留……夢から覚めるにはまだ早いみたいだぞ……)
 そして……
「それで? 由利亜、俺のどこが薄情者で人でなしだって?」
 蒼は徐に隣の由利亜を見やった。
「いや……それは、その……言葉のあやというかですねぇ……。なんというか、つい、その……」
「帰ったら償いは十分にしてくれるんだろうな?」
 その言葉にすっかり顔色を悪くした由利亜を、蒼は優しげな目で見つめていた。








「また、ここに戻ってくるとは思いませんでした」
 あれから、深知留は返事をする間もなく環に強制連行で龍菱の家へと連れ帰られた。
 当の深知留にはそれを断る理由も拒否する理由も無く。
 そして、深知留が戻ったのを一番喜んだのは他でもない鈴だった。
 鈴は深知留を一目見るなり、もう離さないのではないかというくらい彼女をしっかり抱きしめていた。まるで自分の恋人のように。
 もちろん、そこは雅が責任を持って宥めてくれたのだが、環はあんなに感情的な鈴を見たのは初めてだった。
「昨日、兄さんから国際電話がかかってきた時は本当に驚いたよ」
 環は自室のソファーに座って隣にいる深知留をそっと抱き寄せる。
 望んでも決して手に入らないと思った相手が今自らの手元にいるのは分かっている、逃げないのも分かっている、それでも環は自分のそばに深知留がいることを確かめるように。
「義姉さんはなぜか取り乱してるし、おまけに深知留は泣きながら出て行ったって言うから焦った」
 ようやく解放してやれたのに、ようやく恋する相手の元へと返してやれたと思ったのに……なぜ泣きながら出て行ったのか環には解せなかった。
 ただその時、別れ際の泣きそうな深知留の笑顔だけが環の脳裏をちらついて……
 さらに途中からは興奮状態の鈴が雅から電話を取り上げ、事情を説明するより先に捲し立てた。
『偽恋人ってどういうことかしら?』
『本当の恋人って何? わたしは深知留ちゃん以外は絶対に認めません!!』
 最後は随分と理不尽な事を言って環を責め出す始末だ。
 そして感極まった鈴は言った。
『深知留ちゃんはあなたのことが好きなのよ。それに、環さんだってあの子が好きなんでしょう? なのに、どうして自分で手放すような真似したのよ』
 さらに鈴は涙にくぐもる声でこうも言い添えた。
『わたしは、あなた達にどんな事情があるのかは知らないわ。でも、環さん、あなた男でしょう? あの子が……深知留ちゃんが好きなら、奪っても手に入れるぐらいの根性見せなさいよ。このままだったら……あなた一生後悔するわよ』
 一生後悔する……――
 その一言を聞いた後、環は気が付いたら荷物をまとめてホテルのチェックアウトをしていた。翌日には今回一番に大きな商談を抱えていたのに、そんなことその時にはもうどうでも良くて。
 とにかく深知留に会いに行かなければ……そして彼女を捕まえなければ……環はもはやそれしか考えられなかった。
 そして焦る気持ちを必死で抑え、ホテルの前でタクシー待ちをしていると環を追ってきた影が一つ。政宗だった。
 そんな政宗は、鈴の電話で焦る環を楽しむかのように、深知留が麗子の事を知っていると言い出す。パーティーの前の日、深知留が会社に来ていたのだと。
 なぜそれを早く言わないと環が怒鳴り散らせば、深知留が言うなと言ったからそれを忠実に守っただけだとしれっと言った。
 そして、政宗は環に尋ねた。
『やはり、鳥を捕まえに行くのですか?』
 と。
 だから環は答えた。
『捕まれば、な。でも、無理強いはしない。こっちに来ないかともう一度誘うだけだ。最終的に飼い主を選ぶ権利は鳥にあるからな』
 すると政宗は、
『無理強いをして捕まえればやがて逃げるが、自ら寄ってくれば逃げはしない……そういうことですか。年を食った男の考えそうなことですね』
 と言って寄越した。
 そして、報酬は高く付きますよ、と言いながら、政宗は日本行きのチケットを環に渡し、その後の仕事の調整を嫌な顔一つせず請け負ってくれたのだ。
 政宗という男はクセがあって扱いにくいが、頼りにはなる男である。むしろ、絶対に敵には回したくないタイプだと環はあの時改めて実感した。