授業を全て終え、由利亜は学校の校門前で京を待っていた。
 京は、職員室に寄ってすぐに行くから、と先ほど由利亜と教室で別れたばかり。
 今日はこの後、京と京の二番目の兄、もといと三人でドライブをして食事に行く約束がしてあった。
 京には兄が二人と姉が一人いる。一番上の兄は既に結婚しており、将来の総帥となるべく樹月グループ系列の会社をいくつか切り盛りしている。そして姉もお嫁に行ってしまっている。
 今日、約束をしている基は現在大学院生をしている。妹の京曰く、彼は樹月グループに入る気はさらさらなく、このまま大学に残って研究を続けるのが夢とのことだった。
 基は京と仲が良い。というより、基が京を可愛がっているのだ。他の兄姉も一人だけ年の離れた京をよく可愛がっていたが、基は特別に京を可愛がっている。
 そんな基は由利亜にも良くしてくれた。もちろん、それは『妹の親友だから』という理由だけで他意はない……と由利亜は思っている。
 由利亜はそんな基が好きだった。といっても、恋愛対象としてではなく、兄として。
 一人っ子の由利亜は兄弟の感覚が分からない。だから、基を見ながら、もしお兄ちゃんがいるならこんな人が良いな、と思っていた。
「由利亜ちゃん!」
「あ、基さん。こんにちは」
 由利亜は名前を呼ばれた方向に顔を向け、高級外車の窓から顔を出す人物を認識する。
 基は愛車を道端に寄せ、ハザードランプをつけて車から降りてきた。
「お待たせ。……あれ、京は?」
「職員室に行くって言ってそのまま……。たぶんもう来ると思うんですけど」
 由利亜が腕時計を見ると、時刻は基と約束した四時半になろうとしていた。
「そのうち来るだろう。それより……由利亜ちゃん、悪いんだけど、ちょっと電話しても良いかな?」
 自分の携帯電話を見せる基に、由利亜は、どうぞ、とニコリと笑って了承の意を示した。
 基は少しだけ由利亜から離れ、電話をかけ始める。
(長くて綺麗な指……)
 携帯電話を持つ基の手を見ながら由利亜は思った。
 続けて由利亜は、基の全身を写すように視界をズームアウトする。
(大きい身長。顔も小さいし……モデルみたい)
 由利亜の言葉通り、基はモデル並みにいい男だった。
 長身に長い手足、だからといって細すぎない適度に鍛えられた体。それに付随する顔はやはりというべきか、綺麗な作りで洗練された上品さに溢れていた。さらに低すぎず高すぎない声もいい。
 由利亜はいつの間にか、瞬きするのも忘れて食い入るように基を見つめていた。
「やっとその気になった? ……今が買い時よ?」
(――――!?)
 突如、背後から聞こえてきた声に、由利亜はその背中をビクリとさせる。
「み、み、み、京!?」
「おもしろすぎるわ。その反応」
 いつの間にか由利亜の背後に忍び寄っていた京はププっと笑った。
「で、そろそろうちの兄貴に本気になった? オススメだよ。次男だし。今なら恋人絶賛募集中だし。基お兄ちゃんだって由利亜のことまんざらでもなさそうだしさ」
 京は由利亜の耳元でそう言いながらニッと笑って見せた。
「ちょ、ちょっと、何を言ってるの? わたしは別にそんな……」
「あ、そう? まだ認めないの?」
 京は相変わらず意地悪そうに笑う。
 そう……京は気づいていた。ここ最近の由利亜の変化――由利亜自身も気づいていないような、彼女の微細な心の変化に。
 時々、由利亜が女の顔をして基を見ていることを京は知っていた。
 しかしそれは京にとって喜ぶべき事で、両手を挙げて賛成することである。
 だからこの前、京は由利亜に単刀直入に聞いてみた。
『うちのお兄ちゃん、好き?』
 しかし、それに対して良い答えは聞けなかった。
 由利亜はただ、
『好きよ。本当のお兄ちゃんみたいで』
 と答えただけ。
 何度聞いてもそれは変わらなかった。
 でもそれも、当たり前といえばそうだ。
 だって由利亜は昔から恋愛ごとに関して超がつくほど疎かったから。それ故、彼氏いない歴イコール年齢なのだと京は密かに思っていた。
 だから京は動いたのだ。マインドコントロールという手段を使って。
 由利亜が基と会う時には必ず聞いた。
『そろそろ基お兄ちゃんのこと、好きになった?』
 何度も執拗に。それも今日のこの由利亜の慌てっぷりからすると、そろそろ効果が出てきたようである。
「認めないんだったら、今日は二人っきりにしてあげようか? わたし、帰るから」
 京がそう言って悪戯っぽい笑みを浮かべた時だった。
 遠くの方から結構なスピードで走ってきた一台の車が、そのタイヤをキュキュッと軋ませながら由利亜たちの前で止まった。
 突然の出来事に二人は呆然と立ちつくす。と言うより、車がそのまま自分たちの方に突っ込んでくる、と思ったら動けなかったのだ。
「……何だ?」
 ちょうど電話が終わった基も、驚いて言葉を漏らす。
 すると……
 ガチャリという音と共に黒スーツをビシッと着た男が助手席から出てきた。
 三人は一体何事かと事の成り行きをただ黙って見守る。
 助手席から出てきた男はまるで流れ作業のように後部座席のドアをゆっくりと丁寧に開け、そして深々とその頭を下げた。
 それからすぐ、カツン、という靴がアスファルトに付く音と同時に、チャコールグレイのスーツをエレガントに着こなした男性が一人、がそこに降りた。
(――――!!)
 車から降りてきた人物に、三人とも声を奪われる。
「……蒼さん?」
 京がその名を口にしたのはしばらくの間を経てからだった。
「お久しぶりですね。樹月グループの京お嬢様。それにご子息の基さん」
 華宮蒼はその口角をわずかに上げた。
「華宮さん……。何かご用ですか?」
 基は由利亜と京を守るかのようにその前に立つ。
「ええ。もちろん用事があって参りました。ただ、それはあなた方ではなく、そちらの由利亜さんに、ですが」
 蒼は営業用の笑みを浮かべながらその視線を基の後ろへ送った。由利亜はそれから逃げるように顔を背ける。
「何で来たのか、その理由は分かりますね?」
「…………」
「手紙は行きませんでしたか?」
「…………」
 由利亜はいずれの質問にも答えなかった。
 基も京も、今目の前で起こっている状況を理解することができない。
 しかし、由利亜だけは蒼の目的を大方把握していた。それでも、今この瞬間由利亜はどうにもすることができなかった。逃げ出すことさえも、できない。
「今日が何の日だか、あなたはご存じでしょう? ……華宮家の孫娘、由利亜さん?」
 蒼が言い切るのと、基と京が表情を歪めたのはほぼ同時だった。
「ちょ……ちょっと待ってよ。由利亜が華宮家の孫娘ってどういうことよ? ……何、ワケのわかんないこと言ってるの?」
 京は何とか冷静さを保とうとするが、あまりの状況にそれもならない。
「そのまま、申し上げた通りですよ。この方は華宮早次郎の直系にして唯一の孫娘、華宮由利亜さんです。……あなた方には、華宮家の一人息子崇の娘、と言った方が分かりやすいですか?」
 蒼はいつの間にか笑みを消し、至極真面目な顔をしていた。その表情が、彼の言った台詞に真実味を持たせた。