「な、によ……それ。ウソ……でしょ?」
 やはり、理解ができずにただ困惑の声を漏らす京。
「由利亜、ねぇ……どういうこと? そんなの、違うわよね?」
「…………」
 驚愕の表情で自分を見つめる京に対し、由利亜は貝の様に口を噤んだまま彼女の顔を見ることはできなかった。
「さぁ、由利亜さん。一緒に来ていただきたい」
 蒼は車を指し示し、それに乗るようにと由利亜を促した。
 しかし、由利亜は一歩も動こうとはしない。
「華宮さん、ちょっと待ってください。話がよく見えないのですが……彼女も困っていますし、今日のところはお引き取り願えませんか?」
 蒼が伸ばした手を基が振り払うようにして由利亜を庇った。
「それでは困るんですよ。本日五時から行われる華宮早次郎の遺言発表……それには直系の孫娘である由利亜さんに出席していただかなければならないんです」
「遺言……発表?」
 基はその部分だけを聞き返した。
 由利亜は鞄を持つその手にグッと力を込める。
「……嫌です。わたしは榊由利亜で、華宮なんて名前は知りません。迷惑です。やめてください」
 やっと言葉を発した由利亜に、蒼はフッとため息混じりに笑った。
「強情ですね。そうですか……そちらがそのつもりなら、こちらも考えましょう」
 蒼はそう言って左手をスッと挙げた。
 すると、今まで蒼のすぐ後ろに控えていた黒スーツの男が、基をすり抜けて由利亜の体を軽々と抱き上げる。
「ちょ、ちょっと……嫌だ。何するのよ!」
 男の肩にまるで荷物のように担ぎ上げられた由利亜は突如視界が反転した。
 由利亜はおろせとばかりに男の背中を力任せにドンドンと叩いたが、鍛え上げられた男の体には何の効果もない。
 男は担ぎ上げた由利亜を軽々と運び、彼女の抵抗もむなしくそのまま車の後部座席に押し込んだ。
「それでは。失礼させていただきます」
 蒼は由利亜が車に乗った事を確認すると、まるで何事もなかったかのように京と基に軽く頭を下げ、自らも車に乗り込んだ。
 必要人員を乗せた車は、それからすぐその場を立ち去っていく。
「ねぇ、お兄ちゃん……今、何が起こった?」
「聞くなよ……俺だってお前に聞きたいくらいだ」
 取り残された樹月兄妹はまるで夢でも見ているかのような気分で、車が消えていった方角をじっと見ていた。








「わたしには関係ないでしょう? 父はわたしが生まれる前から祖父とは絶縁状態のはずです。それなのにどこに出席しなきゃいけない理由があるんです?」
「理由も何もお前が直系の孫って事に変わりはないだろう。どうしても理由がほしいなら、その体に流れているあんたの血だ。それでいいか?」
「それは……」
「とにかくお前が出席しなくちゃ何も始まらない」
 もうかれこれ二十分くらい経つのだろうか。由利亜が車に無理矢理乗せられてから由利亜と蒼はずっとこんな調子である。
  しかも蒼は、さっきまでの紳士的な態度はどこに行ったのか、という豹変ぶりである。まぁ由利亜を誘拐同然で連れてきた時点で紳士的ではないのだが。
「いいかげん諦めたらどうだ? もう屋敷に着いた」
 由利亜は車が止まってドアが開いたと同時に車を飛び降りた。
「誰が諦めるもんですか。悪いけどわたしは出席しません。遺産相続なんて関係ないですから。あなた方の好きにしてください」
 まだ車に乗っている蒼に言い捨てて、由利亜はたった今車で入って来た門に向かって走り出した。
 この際、あかんべーでもしてやろうかと思うくらい、由利亜は興奮していた。
 今、彼女の頭の中は遺産相続がどうのこうのという前に、これから京と基にどう言い訳をしたら納得してもらえるのかでいっぱいだった。
 その時だった。
「お戻りください」
 低い男の声と共に、由利亜はその腕を力強く引かれた。
 クッと引かれた由利亜はその反動で思わず振り返る。
「なっ……」
  振り返った瞬間、由利亜の口から声とも言えないような音が漏れる。
 プロレスラーの様な男性が数名、自分の後ろに雄々しく立っている画は、由利亜の頭の中でまとまりかけていた言い訳の文章を一気に崩落させた。
 由利亜はそれでも一応腕を引いてみたが、ビクとも動かない。
「それでも帰ると言うなら、少し扱いが乱暴になるが?」
  由利亜は無言のまま蒼の顔を睨み付ければ、彼はそれに対して不敵な笑みを浮かべていた。



 ◆◆◆



「この部屋だ。みんなお前待ちだよ」
  使用人と思われる男が、蒼の合図と共にいかにも重そうな戸を開くと、部屋は一瞬静まったが再びひそひそ声でざわめきが広がる。
 それと同時に、部屋の奥でたくさんの花に囲まれて飾られていた華宮早次郎の遺影が由利亜の目に飛び込んできた。
(この人が華宮早次郎…………)
 しかし、由利亜にはゆっくりと思いに浸る間など与えられなかった。
「おい、崇は絶縁されたんじゃないのか? しかも三年くらい前に死んだんだろう?」
「ほらあの子よ、たった一人の孫って。確かユリアちゃんっていうのよ」
「崇ってメイドと駆け落ちした息子だろ。一族の恥さらしじゃないか。その娘が何で今更になって」
  周囲の会話が由利亜の耳に無条件になだれ込んでくる。
 由利亜は自然と顔を俯けた。
 両親がしたことが悪いことだと、由利亜は今も今までも微塵も思ったことはなかった。しかし同時に、周囲の非難めいた言葉を聞き流すだけの心の準備もできていなかったのだ。
 恥ずかしいことなど何も無いのに、心ない周囲の声に由利亜は一度俯けてしまった顔を上げることができなかった。顔を上げなければ両親のやったことが間違いだった、一族の恥だった、と認めてしまうことになるのに、由利亜は頭に錘を乗せられたかのように上げられず、ただひたすら床を見つめる。
 こういった席に出ればこんな非難の一つや二つは当たり前のことなのに、この時の由利亜にはどうしても割り切れなかったし、それだけの冷静さも余裕もなかったのだ。
(こんなところ、やっぱり来るんじゃなかった…………)
 由利亜は何だか自分が重い罪を犯した罪人にでもなったような気分だった。
 そして、それは由利亜がさらに俯き掛けた時のこと……
「無駄話なら後にしてください。開始時間が遅れたのは全て私の不手際です」
  気が付けば蒼が由利亜を周りから隠すように歩み出ていた。
(庇って……くれた?)
  ふとそんな考えが由利亜の頭を過ぎる。
  辺りがいくらか静かになると、遺影のそばに座っていた男性がゆっくりと立ち上がった。
「それでは、皆さまがお揃いになられたようですので、これより、故華宮早次郎氏の遺言を私、弁護士の山名やまなが代読させていただきます」
  一瞬にして部屋中に緊張感が走る。そして、会場中の全ての視線が弁護士へと集まる。
 山名は一拍ほど間をおいて手にしていた封筒の封を切り、遺言書を目の前に広げる。
「『私、華宮早次郎の死去に伴う相続については次のように記す』」
 山名が後続の文章を確認するかのようにそこで言葉を切ると、まるで四方八方からゴクリと唾を飲み込む音が聞こえるほどに空気が張りつめた。
 皆が皆、それぞれに複雑な面持ちで続く言葉を待っている。
 続きの言葉を紡ぐべく、山名の唇が動く…………
「『我が息子、崇が遺児、由利亜に全財産ならびに華宮グループの全権を譲渡する』」
  たった数秒の出来事の後、何とも言えぬ静けさが辺りを支配した。
 しかし、すぐに部屋はうるさいほどのざわめきに包まれる。
(……今、なんて……?)
 由利亜は本日何度目かの状況把握不能状態に陥っていた。
 由利亜の聴力が正常であるならば、今弁護士は常識では考えられないような言葉を口にした。
 多くの人があっけにとられる中、山名の言葉が続く。
 周囲は再び静まり返る。
「『但し、総てを由利亜に譲渡するにあたり、由利亜は我が養子、蒼と婚約することを条件とする。また、その他の相続は一切ないものとする』……それでは、以上をもちまして遺言発表を終了させていただきます。なお皆様のご退席後、由利亜さんと蒼さんのご両人はこの場に残っていただきます。私の方から詳しい説明をさせていただきますので」
  ざわめきがより一層激しさを増す中、山名は遺言書を元の封筒に収めてゆっくりと一礼した。
 そんな山名の姿を見ながら由利亜は今、自分の身に起こっている出来事を何一つとしてし消化できていなかった。