遺言発表後、由利亜は別室に通された。 
 そこはリビングのようで、だだっ広い部屋の中央には繊細な彫刻が施されたテーブルとそれを囲むように高級そうなソファーが置かれていた。
 ここまでどうやって来たのかを、由利亜はあまりよく覚えていない。もはや、全ての事象に対し、流れに身を任すよりなかったから。
 由利亜と蒼は向き合う形でソファーに座っていた。そして、蒼の隣には先程遺言発表を行った山名が座っている。 
 誰も何も申さず、険悪な雰囲気が辺りを支配している。もちろん険悪な雰囲気の原因は由利亜である。
 この部屋に通されてから由利亜も冷静になってよく考えてみた。
  そもそも、せっかく養子を取ったのに、自分の遺産や権利を単なる血縁上の孫に譲渡する意味が由利亜には分からなかった。
 さらにもっと納得がいかないのはその後の条件……
『婚約って一体何ですか? 』
 由利亜はそれを面と向かって聞きたかったが、普通に『結婚を約束することです』と返され誤魔化されそうなのでやめた。
 だいたい、由利亜にしてみれば十七歳にしてこの先の人生を決めるつもりなどさらさら無いし、何よりもそんな大事なことを人に決められるなんて冗談ではない。
(ホント、どうしようもない遺言残してくれたわね……)
「あの、由利亜さん……よろしいでしょうか」
 山名は不機嫌極まりない由利亜の顔色をうかがった。
「どうぞ」
  由利亜はぶっきらぼうに答える。
「では、改めてお二人のご紹介から……こちら華宮蒼さん二十三歳、帝都大学大学院修士課程の二年生。専攻は経済学でしたね。そして、彼女は榊由利亜さん十七歳、高校三年生。高校は確か公立の……」
星蘭せいらん女子高校三年G組。現在生徒会副会長を務め、成績は常にトップクラス。特に交友関係が深いのは樹月グループの次女、樹月京。それから生年月日は一九××年十二月二十五日、山羊座のO型。両親は事故で四年前に他界し、その時から一人暮らしを始める。……コレで十分だろう?」
 山名の言葉を遮った蒼は、まるで本読みをするかのようにすらすらと由利亜の個人情報を述べていった。しかも一つの間違えもなく。それはもう、あんたはストーカーか興信所の人間か、と思わずツッコミを入れたくなるほどに。
  驚いた由利亜はしばらく開いた口を塞ぐことができなかった。それは酸素不足の魚のような何とも間の抜けた顔だった。
 蒼は一度間をおくと再び言葉を続けた。
「山名さん、氷室ひむろをここに入れてもかまわないかな?」
「え、えぇ……」
 由利亜と同じく、山名もまた蒼の情報量に呆気にとられていた。
「氷室、入れ」
  彼がそう言うと、蒼に呼ばれるのを待っていたかのように一人の初老の男性が部屋の中へと入ってきた。
 氷室と呼ばれたその初老の男性は白髪交じりのとても品のある人物で、銀縁の眼鏡をかけ、執事の正装をしていた。
 彼は部屋に入ると由利亜と山名に深々とお辞儀をする。
「由利亜さん、こちら華宮家の執事を務めていらっしゃる氷室さんです」
  山名がすかさず由利亜に紹介した。
「はぁ……」
  由利亜の気の抜けたような返事に、氷室はもう一度、今度は軽くお辞儀をする。
 すっかりペースを取り戻した山名が話を続ける。
「じゃあこれ、氷室さんも来たところでお願いします。また私が取りにうかがいますのでその時までに必ず記入しておいてください。できた時点でご連絡をいただいても構いません。それから他の手続きは先代のご意向によりこちらの方で全て取り仕切らせていただきますので」
  山名は鞄から何やら薄っぺらい一枚の紙を出し、それを机の上に広げた。
「ちょ、ちょっと……何よこれ」
  由利亜は目の前に広げられた紙に思わず言葉を漏らした。
「婚姻届」
「そんなの見れば分かります!」
 お前、漢字が読めないのか? とでも言いたげな蒼に由利亜は声を荒げた。
 婚姻届――それは間違いなく結婚する男女が市区町村に提出するあの紙である。
 初めて本物を見た、と由利亜は一瞬変な感動を覚えたが、そんな余裕は今の自分にないことをすぐに思い出す。
「じゃあ、使い方が分からないのか?」
  蒼は平然とした顔で答える。
「…………」
 記入して役所に持って行くんでしょう? と言ってやりたいが、由利亜は言葉に詰まっていた。
 さっき聞いたのはあくまでも『婚約』で『婚姻』ではない。それを今すぐ求められる意味が由利亜にとっては理解不能だった。
(……冗談じゃない)
「すみません……さっき、遺言発表では婚約って言ってましたよね? 婚姻なんてわたしは一言も聞いてませんけど?」
 由利亜はとりあえず今一番の疑問を投げかけた。
 すると、山名は優しい印象を与えるその垂れ目で穏やかそうに微笑んだ。
「そうですね。今からご説明しようと思ったので、由利亜さんはご存じなくて当たり前ですよ」
 オイ!! ……と勢いよく突っ込みたいのを押さえながら、由利亜は自分の顔色がだんだん青くなっていくのが分かった。
 一体、華宮早次郎という人物が生前何を思ってどうしたかったのか、由利亜にとっては彼の人格そのものが不思議になった。
「ご説明……していただかなくて結構です。申し訳ありませんが、この話はなかったことにしてください。遺産の方は蒼さんに全てお任せしますから。わたし、今すぐ即座に速攻で帰らせていただきます!」
  由利亜は必要と思われる用件を伝えて、意味の分からない日本語で締めくくりながらその場に立ち上がった。
「それでは困るんですよ、由利亜さん」
  山名はすでにドアを開けて部屋から出ようとしていた由利亜を呼び止めた。
  由利亜は一端振り返る。
「困るも何もだいたいわたしはこの年で婚約するなんて嫌です。結婚なんて以ての外。それに、わたしは遺産なんて物にはこれっぽっちも興味がありませんから。どうぞ欲しい方に差し上げてください」
「お前が嫌でも興味がなくても関係ない。これは正式な遺言で、要は政略結婚みたいなものだろ。それに、遺言の最後にあった言葉、聞かなかったのか? その他の相続は一切ないものとする、って。お前の意見なんて誰も聞いちゃいない。それとも何か? お前はお前の勝手なわがままで華宮の系列会社を全て潰す気か?」
「…………」
  蒼の返答にもはや出す言葉もない由利亜をよそに、他の三人はどんどん話を進めている。
(このままじゃ確実に丸め込まれる)
(十七歳で人妻…………)
 奥様は高校生――昔どこかで流行ったような小説かドラマのタイトルが不意に由利亜の脳裏をよぎる。
(本当の本気で……冗談じゃない)
 このままでは間違いなくそのタイトルを地で行ってしまう。それも、小説やドラマみたく愛する人と一緒に……のラブロマンス特典付き、ならまだしも、突然会ったようなこんな失礼極まりない男と、だ。
 由利亜は身に迫る危機感をひしひしと感じていたが、今のこの状況を打破することはできなかった。
「それから、華宮早次郎氏の意向により一ヶ月以内に籍を入れていただきます。しかし、由利亜さんが高校をご卒業されるまでは世間的に婚約のみの発表となりますので、婚姻に関しましては伏せますね」
  由利亜はもはや、山名の話の後ろ半分以降が耳に入っていなかった。
 その時、既に由利亜の頭はすでにキャパシティをだいぶ越えていたのだ。
 そもそも、この数時間のできごとが由利亜にとっては現実離れしすぎているのだ。遺産に権利に相続、あげくに結婚……――
 考えられないし、頼まれても考えたくないことばかりだ。
「あと……由利亜さんには今日からここ、華宮家のお屋敷に住んでいただきます。現在住んでいらっしゃるアパートの方は、こちらの方で手続きして解約させていただきました。引っ越しの荷物は今日の……えっ? 由利亜さん? ちょっと…………」
  由利亜は山名の驚いたような声を遠くの方で何となく聞きながら、ゆっくりと気が遠のいていくのを感じていた。
 由利亜は今目の前で起こっている現実を、ついに理解することができなくなったのだ。
(こういうのを本当の現実逃避って言うのよね? ……もうどうでもいいや)
 由利亜は眠りに落ちるようにゆっくりとその意識を手放した。
 目が覚めたら全部夢でありますように……そう切実に願いながら。