「由利亜、どうして黙っていたの? わたしのこと……ずっと騙していたの? もう由利亜のこと信じられないよ。ごめんね……バイバイ」
「京……? 待って京! 誤解なのよ……お願い待って!!」
京は悲しそうな顔をして、どんどん遠ざかっていく。由利亜は必死になって追いかけるが、京との距離は広がるばかりだ。
次に現れたのは基だった。
少し寂しそうな顔で由利亜を見ている。
「基さん?」
「由利亜ちゃん。君、華宮のお嬢様だったんだね。俺、由利亜ちゃんのこと好きだったんだよ? でも、華宮の孫娘じゃね……残念だけど諦めるよ」
基も京と同じように由利亜から離れていく。
「え、ちょっと待って、基さん!! 好きだったって……何それ。過去形にしないでくださいよ。ねぇってば……」
由利亜は離れていく基の背中に向かって力一杯に両手を伸ばした。
「基さん!! 待って」
◆◆◆
気を失った由利亜は華宮家の一室でベッドに寝かされていた。
眠りから覚め、ゆっくりと目を開くと随分と近い位置に最近見知った顔がある。
二人の顔の距離は約十センチといったところで、由利亜はしっかりとその人物に抱きついていた。
(……ここどこ? わたし何してるの?)
由利亜の中に、単純だがすぐには答えの出ない疑問が生まれた。
(ここ、家?)
続けてそう思うが、天井やベッドの具合がどうも違う。そして、自分のうちにこんな綺麗な顔をしたオニーサンもいない。
(綺麗な顔したオニーサン……。オニーサン? オニー…………)
「きゃぁぁぁぁぁ!!」
思考回路が到達するより先に、由利亜は絶叫した。
そう。由利亜の鼻先十センチにいるのは紛れもなく蒼だった。
「悪かったな。基さん、じゃなくて」
鼻先十センチの綺麗な顔は明らかに不機嫌だ。
由利亜が叫んだ直後、遠くからバタバタと廊下を走る音がし、それが止んだと思うと部屋のドアがものすごい勢いで開けられた。
『由利亜様!』
部屋に入ってきた、むしろ飛び込んできたのは先程顔を合わせた氷室だった。そしてその後ろからもう一人、穏やかそうな顔をした恰幅のよい初老の女性が見える。
由利亜は蒼に抱きついてベッドに寝たままの状態で二人を迎え入れた。
しばらくの沈黙があって、ようやくが女性が口を開く。
「蒼様……由利亜様にそんな……」
彼女は何をどう判断したのか、そう言ったきりまた黙ってしまった。
氷室は部屋に入るときに由利亜の名を呼んだまま、ぴくりとも動かない。
「由利亜……手、ほどいてもらえるか? 動けないんだ……」
再び生まれた沈黙を破ったのは首が絞まり掛けて苦しそうな蒼だった。
「やだっ……ごめんなさい」
由利亜はようやく現在の状況に気づいて、慌てて蒼から手を離した。
「だから……誤解です。藤乃さん」
「別に構いませんよ、わたくしは。でもお二人があんなに仲がよろしいとは知りませんでしたわ」
「藤乃さん!」
懸命に弁解しようとする由利亜をよそに楽しそうに笑っているのは華宮家のメイド長、
「由利亜様、お食事は摂れそうですか? 一応準備はさせてございます。とりあえず、その前に制服をお着替えになってください」
由利亜はふと腕時計に目をやった。時刻はちょうど七時を差していた。
ここに来たのは五時過ぎ、どう考えても一時間以上はここで寝ていた計算だ。
「あの、藤乃さん。わたしもう失礼しますので。どうもお世話になりました」
由利亜が慌ててドアを開けようとしたその時、ドアが逆側から勢いよく引かれる。
「え? うわっ……」
勢いあまった由利亜は、ドアの外側にいた誰かに思い切り突っ込んでしまった。
「ご、ごめんなさい……」
鼻を押さえながら顔を上げると、由利亜の目の前には世間一般では美男子と呼ばれる類の若い男が立っていた。
「も、申し訳ございません、由利亜様」
彼は慌てた様子で由利亜に頭を下げる。
「竜臣」
藤乃は突然の来訪者をそう呼んだ。
「何の用です? ここは由利亜様のお部屋ですよ。入室するときはノックぐらいなさい」
「大変失礼致しました。蒼様より由利亜様をお屋敷より出すなと言われて焦っていたもので……」
竜臣と呼ばれた男は再び由利亜に深く頭を下げた。
「そのことなら心配ないと蒼様に伝えてちょうだい。由利亜様にはわたくしが付いています。それに玄関の方にも二人置いてあります。竜臣、もう蒼様のところに下がって結構ですよ」
「はい。それでは失礼致します」
由利亜はただ呆然と藤乃と竜臣のやりとりを眺めていた。
「彼は?」
竜臣が出て行った後、由利亜は藤乃に尋ねた。
「彼は末広竜臣。蒼様の秘書兼ボディーガードです」
「秘書?」
由利亜は説明を求めるように藤乃の言葉を繰り返す。
「ええ、蒼様は旦那様がご健在の時から氷室と旦那様の補佐の元で副総帥を務めていらっしゃるのですよ。つまり、竜臣はその秘書です。そうそう、由利亜様にもこれからは何人かのボディーガードが付きますわ。何と言っても華宮の若奥様ですからね」
「わ、若奥様ぁ? ……な、何を言うんですか藤乃さん。わたしは蒼さんと結婚するつもりはありませんから!!」
満足そうに笑う藤乃に対し、由利亜はやや語調を強めた。
「あらまぁ、そんなことおっしゃらずに」
「とにかく。わたしはこれで帰らせていただきます」
「どちらへお帰りになるのですか? アパートは解約なされたのですよね? 荷物の方は届いていますけれど」
「…………」
由利亜は藤乃の言葉によって、自宅であるアパートがすでに解約されたという今まですっかり忘れていた事実を思い出した。
「……でも、とりあえずここからは出ていきます」
そう言って由利亜は部屋を出た。
藤乃が由利亜を追ってくる気配はなかったが、それ以前の問題で家の中のあまりの広さに由利亜は迷子になりつつあった。ようやく玄関を探し当てたのは、それから十数分後のこと。
由利亜が玄関に向かって歩き出そうとした時、
「きゃっ……」
由利亜は後ろから誰かに手を引っ張られた。
「由利亜様、お探ししましたよ。お食事の用意が整いました。蒼様がお待ちです」
「末広さん……」
「竜臣で結構です。さあ、参りましょう」
由利亜は何の抵抗もさせてもらえず、そのまま竜臣によって連行された。
結局、華宮家のだだっ広い食卓で食事をごちそうになり、食事後は有無を言わせず部屋へと案内された由利亜は、つい先程まで気絶していた天蓋付きのベッドに身を投げて深いため息をついた。
「疲れた……」
由利亜はなぜかうまい具合にどんどん丸め込まれている気がしてならなかった。たった一日で一生分の人生が狂いを生じ始めている。
ふと思い立って鞄の中から携帯電話を取り出す。
画面を見たが、期待していた京からの連絡はなかった。すぐにメールの問い合わせをしたがやはり何も届いてはいない。
由利亜はアドレス帳から京の携帯番号を手早く検索し、通話ボタンを押した。
しばらく待ったが呼び出し音が鳴るだけで出る様子はない。
由利亜は迷わず登録してあるもう一つの番号に電話をした。
『はい、樹月でございます』
呼び出し音一回で女の人が電話口に出る。
「あの、榊と申しますけど、京さんはご在宅ですか?」
『京お嬢様は只今外出されておりますが……』
「そうですか。では……またかけなおします」
由利亜は電話を切ったあと、さすがに大きなため息を吐いた。