「それでね、由利亜ちゃん……」
そう言って話を切り出した基の顔からは、いつの間にか笑顔が消えていた。
「由利亜、あんたこの期に及んでまだわたしに隠していることあるわよね?」
京が基の言葉を引き継ぐ。
「…………」
由利亜は何も答えず、少し様子をうかがった。
「華宮蒼と君が婚約するっていう話は本当? 実は昨日実家でそんな話を耳に挟んでね」
話の核心を突いてきた基に由利亜は気まずそうにその顔を見上げる。
十中八九、由利亜はこの話を聞かれると思っていた。しかし、もはやそれを隠す気もない。
「もうそんなことまで流れているんですね。でもそれ……婚約じゃなくて結婚なんですよ。世間的には婚約、という形で流すって聞いていますけど」
『はぁっ!?』
衝撃の事実に驚く二人をさておき、その見事にシンクロした声に由利亜はちょっと感動する。
「け、けけ結婚て……あの結婚? 式上げて籍入れて一緒に暮らす結婚?」
「京、落ち着いて。それと違う結婚はあまりないから」
今日一番に驚く京を由利亜は冷静になだめた。
そんな京の隣では、基がまいった、という顔をしている。
「お、おおおお落ち着いてなんていられるもんですか!! だいたい、あんたは何でそんなに冷静なのよ? 何がどうなって結婚なのよ?」
京はテーブルに身を乗り出した。
そこに置かれている紅茶が振動を受けてカップの中でユラッと揺れる。
「何がどうなって……ってのはわたしもよく分からないの。それがお祖父様の意向みたい。わたしが全財産を引き継ぐ条件として、蒼さんと結婚しろって。ちなみに拒否権はない感じ」
「……期限は? 一応設けられてるんだろう? いつまでに婚姻を成立させるのかっていうモノ」
「えと……昨日から、一ヶ月以内」
由利亜は数拍おいて基に答えた。
「由利亜、どうするつもりなのよ?」
「…………」
由利亜は京の問いに本日数度目の回答拒否をした。
今まで考えないように努めていたが、現実を突きつけられると考えざるを得ない。
このままでは確実に、由利亜は婚姻届に署名をさせられる。それも同意などなく、無理矢理に、だ。
確かに、華宮家から逃亡するという手もあるが、華宮家が総力を尽くせば何の力もない女子高生を捜すことなど赤子の手をひねるよりも簡単だろう。
そこまで考えると由利亜は気が重かった。
「どうするかねぇ……」
しばらくの沈黙を挟み、基は頬杖を付きながらふぅっとため息を吐いた。
「かわいそうだけど、由利亜ちゃん。たぶん今の君に選択権や悩んでいる時間はないと思う。政財界を始め、各界にはもう君たちの婚約がかなり信憑性の高い噂として流れているようなんだ。だから、このままで行くと確実に婚姻届けに名前入れることになるよ。由利亜ちゃんももう分かっていると思うけど、華宮はそんなに甘くない……だろう?」
由利亜は基の言葉に静かに頷いた。
その時だった。
「ねぇ、由利亜。それ……鞄の中で光ってるの携帯じゃない?」
由利亜が京の視線の先を追うと、確かに自分の鞄の中でサイレント設定にしてあった携帯電話がピカピカと光っていた。
それは、誰かからの着信かメールの受信があった事を知らせるもの。
由利亜はすぐに鞄から携帯電話を取り出した。
「何……これ……」
見た瞬間に由利亜の顔は確実に引きつった。
携帯電話の着信履歴はマックスで二十件まで。そこには全て『華宮家』という名前と電話番号が表示されていた。
というか、なぜその名と電話番号が自分のアドレス帳に登録されているのか、そこがそもそも謎であったが、今その疑問に対する優先順位は低いので由利亜は敢えて気にしないことにする。
確か由利亜は今朝登校前に藤乃にきちんと伝えてきはずだ。友達と会うから帰りは六時頃になります、と。
「どうしたの?」
京が由利亜の隣に来て携帯電話の画面をのぞき込んだ。
「スゴ……これオール華宮家だ。二分おきには掛かってきてるよ」
「一応、メイドさんに六時頃帰りますって行ってきたはずなんだけどね……」
携帯画面の上部に表示されている時間は六時十七分となっていた。確かに六時は過ぎているが、そこまで心配されるような時間ではない。
(……逃亡でも疑われてるの?)
由利亜は深いため息を吐いた。
その後由利亜は、送っていくよ、と言う基のありがたい申し出を受け、その場を後にした。
◆◆◆
由利亜が基の車でマンションから出てきた時、それを遠くの方で見つめる視線が一つあった。
(由利亜……?)
大学でのゼミを終え、会社に寄って自宅へ帰ろうとしていた蒼は、竜臣が運転する車の中から由利亜を見ていた。
渋滞に捕まって動かない車内にいる中、蒼は今まで書類に向けていた目をふと窓の外へと持ち上げた。すると、あるマンションから一台の高級外車が出てきて、自分たちの車よりも数台前に合流するのが見えたのだ。
運転するのは若い男性、その隣に乗るのは見覚えのある制服を纏った女性。
蒼は目を凝らしてその女性の顔を見る。
運転席の男性と楽しそうに話す女性はどう見ても由利亜だった。
(隣にいるのは……樹月の……)
そう認識するのとほぼ同時に、蒼は書類を座席にまき散らして車を飛び出していた。
「え? ……ちょっと蒼様!?」
背中に聞こえる竜臣の声など、その時の蒼の耳には届いていなかった。
「混んでるなぁ。たぶん七時までには着けると思うけど、多少過ぎても大丈夫?」
「はい。一応、華宮に電話はしたので大丈夫だと思います。わざわざすみません」
由利亜は運転席に座る基を申し訳なさそうに見て、そのまま延々と続く車列に目をやった。
「それより、由利亜ちゃん。京のことだけど……大事にしてくれてありがとう。……昨日は本当に凄かったんだ。由利亜ちゃんが自分から離れたら死んでやる〜とか言っちゃってさ。まるで子供みたいだろう?」
基はハンドルに寄りかかり、目線は前方に固定したまま昨日の妹を思い出すかのようにフッと笑みをこぼした。
「そんな……わたしこそ。ホッとしてます。こんな状況になっても、京がわたしを見捨てないでくれて」
「さっきも言ったけど、あいつは絶対由利亜ちゃんからは離れないよ。小学校の時から、京にとって由利亜ちゃんは本当に特別だからさ」
基の言葉に由利亜の脳裏にはまだ出会ったばかりの頃の京の姿が浮かぶ。
訳あって由利亜の通う小学校に転入してきた京。初めて会った日の心細そうな京の顔を由利亜は今でも良く覚えている。
「わたしにとっても京は特別ですよ。あの子はいつだってわたしのそばにいてくれましたから。でも……いいですね、京は妹思いのお兄ちゃんがいて。わたしもそんなお兄ちゃん、いたら良かったのにな」
由利亜は何のお世辞でもなく本心を述べた。そして、運転席にいる基に笑いかける。
「あのさ、由利亜ちゃん……」
そう基が言いかけた時だった。
ガチャリ、という突然の音と共に流れ込んできた外気が由利亜の頬を撫でる。
次の瞬間、由利亜は外から右腕を強く捕まれていた。
「六時には華宮家に帰ると報告を受けているが、どういう事だ?」
「あ、蒼さん!?」
由利亜が驚愕の声を上げたのも束の間、その体はシートベルトをはずされすぐに車外に連れ出された。
何をするんです? という由利亜の抵抗も空しく、基が呆気にとられる中、蒼は由利亜を連れて歩き出していた。