両親の死を知らされたあの日、あの時――
突然独りぼっちにされた由利亜は強くなるよりなかった。強くならなければたった独りでは生きては行けなかったから。
もちろん、京でも基でも小夜子でも、頼れば助けてくれる人はたくさんいた。しかし、そうはせず由利亜は独りで強くなろうとした。
そうしなければならないような、そんな気がして。
そうして強くなった由利亜に泣くことは許されなかった。
もし涙が一滴でも流れたら、独りでは立っていられなくなるから……
もし一度でも座ってしまえば、もう独りでは立ちあがれないから……
だから、
『わたしは強いんだもの』
自分にそう言い聞かせて……由利亜はずっと笑っていた。悲しくなれば、奥歯を噛みしめて必死で堪えて……笑顔を作り上げた。
しかし、それももはや由利亜には限界だった。
この短期間で自らの身に起こったことは確実に由利亜のキャパシティを超えている。
それでも、今の今まで由利亜は何もかもを一人背負って堪えていた。踏ん張っていた。
だけどもう……今は笑うことも、独りで立つことも……疲れてしまったのだ。辛くなってしまったのだ。
と、その時だった。
大きな温かい手が止めどなく流れる由利亜の涙を拭い、その冷え切った背中をしっかりと抱きしめた。
(蒼さん……?)
由利亜は振り向かずともその手の主をすぐに感じ取った。
感じ取ったが……由利亜はその手を振りほどこうとか、逃げようとかは思わなかった。
「風邪ひくぞ」
そんな落ち着いた声が背中に響いたが、由利亜は振り向かない。
「別に……平気です」
由利亜は呟く様に答える。涙に気づかれない様、溢れる物を必死で拭って。
しかし、
「泣いていたんだろ?」
努力は虚しく、蒼の声が聞こえた。すると、まるでそれに呼応するかのように由利亜の瞳からは涙がよけいに溢れてきた。駄目だと思うのに、次から次へと溢れる。
それからしばらくの沈黙を経て、
「無理矢理……キスして、悪かった。初めてだとは思わなかったんだ」
聞こえたのは、蒼の謝罪の言葉だった。
「……謝るなら、何で……したんですか?」
由利亜は相変わらずの涙声で反抗する。
「こんなに……こんなに泣くほど嫌だとは思わなかった」
「……これは……違います」
「じゃあ何でそんなに泣く?」
「これは、父と……母のこと……」
単語をいくつか口にしただけで、由利亜の瞳からはポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちる。もはや感情のコントロールが利かなくなっているようだった。
(この人に、弱み……見せたくないのに……)
そう思うのに、由利亜の涙は引かない。
すると、蒼はそんな由利亜を抱きしめる手にギュッと力を入れた。由利亜の背中に彼の体温がより近付き、その暖かみが由利亜の涙腺をさらに刺激する。
「優しく……ック……しないで、ください。……別、に……ッック……平気です、から……」
由利亜は嗚咽混じりに強がりを言う。
次の瞬間――蒼は由利亜の顔をしっかりと自分の胸に抱きしめた。
「我慢しなくていい。見なかったことにしてやる。だから……もう我慢するな。思い切り、気の済むまで泣けばいい。きっと、楽になるから……」
その時の蒼の言葉は、まるで呪文のようだった。由利亜に触れる彼の体温がその呪文を増幅する……
由利亜は何ともいえない大きな安心感に包まれ、心の中で唯一つながっていた物が音を立てて切れた気がした。
それから、由利亜は小さい子供のように声を上げて泣いた。蒼の体温が心地よくて、温かくて、安心して――由利亜は、久しぶりに誰かに寄り掛かった。
◆◆◆
しばらくして、蒼は泣き疲れて眠ってしまった由利亜を抱き上げてベッドへ寝かせた。
頬に残る涙をそっと拭い、蒼は何かを考えるようにじっと由利亜の寝顔を見つめる。
それは先ほどまでの泣きようが嘘のように、今はすやすやと気持ちよさそうだ。
「由利亜……ずっと独りで、辛かっただろう?」
蒼は呟くように由利亜に話しかけた。
もちろん返答はない。由利亜は身動ぎ一つせず、深く眠り込んでいる。
蒼がそんな由利亜の頬にそっと手を添えると、わずかに目尻が下がった気がした。
(また、基さんの夢を見ているのか?)
そう思って、蒼は由利亜からスッと手を引く。
「……お前の心は誰を、追っている?」
由利亜を見つめる蒼の瞳は、深い悲しみを纏っていた。
「……無理矢理キス、ねぇ……」
京の呆れかえった声が由利亜の耳に響く。
「でも、後で謝ってくれたって言ったでしょ?」
「あんたは後で謝ったら何されても許すの?」
「そんなことは……ないけど……。それに、泣きわめいたわたしをちゃんと慰めてもくれたよ?」
「計算、ね。冷たくするより、優しくしておく方が後々悪いことは無いからね」
「…………」
バサリと冷静に切り捨てていく京に対し、言葉に詰まった由利亜は、手に持っていた紙パックジュースのストローを意味もなくかじりながら屋上のフェンスに寄りかかった。
『今日のお昼、屋上に来て』
今朝、京は由利亜の顔を見るなり『おはよう』も言わずにそう言った。
京がそう言うのも無理はなかった。
夕べ泣き疲れて眠った由利亜は、そのまま朝まで熟睡だったのだ。次に目が覚めるとベッドの上で、蒼が運んでくれたのだろうということは考えなくても分かった。
泣きながら寝たのだから当たり前といおうか、起きてみれば由利亜の目は見事に腫れ上がっていた。
一応、登校する前まで冷やしてなんとか見られる姿にまでは戻したが、それでも凝視されれば変なのは明らか。
京はそれに気づいたのだ。
そして、彼女が気にしたのは、由利亜が泣いた痕跡だけではない。
昨日、由利亜を送っていったはずの基はあり得ない早さで帰宅し、何があったのかと聞けば、途中で蒼が現れて由利亜を連れて行った、と……。それを気にするなという方が酷だった。
それも由利亜を連れて行ったのが知らない誰か、ではなく、蒼だと聞いていたから騒ぎ立てもしなかったが、京は京なりに心配していたのだ。
「ねぇ、由利亜。このままじゃ蒼さんに巧く丸め込まれて、気がついたら結婚してて、気がついたらお腹が大きくて子供がいました……なんて十分あり得るわよ? 女子高生一人騙して好きなように動かすくらい、簡単なんだから」
「うーん。たぶん、蒼さんは……そんなことしないと思う」
少し過剰に脅す京に対し、由利亜は即答する。
「なんで言い切れるのよ? 無理矢理キスするような人間だよ!?」
「……んー、そうだけど。でも、何となくそんな卑劣なことはしないだろうな、って」
即答したが、京の問いに由利亜は明確な返答はしなかった。むしろできなかった。
ただ、蒼が京の言うような卑劣な人間では無い、ということに由利亜は少し自信があったのだ。
そして同時に、無理矢理奪われたファーストキスも、今の由利亜はそれほど気には止めていなかった。
そりゃ確かに直後は由利亜も憤慨した。絶対許すものか、くらい思った。しかし、思いの外素直に謝られて、それとは別のことなのに泣いているのを慰めてもらって……いつの間にか怒りは半減どころかほぼ無くなっていた。
「何となく……って。それじゃ分からないわよ」
「……京は蒼さんの行為を計算だ、って言うけど……やっぱり、蒼さんが本当に悪い人なら素直に謝ったり、泣いてる人間を慰めたりはできないと思う」
由利亜は昨日の蒼を思い出す。
あの時、由利亜はほとんど蒼の顔は見ず、声しか聞いていなかった。それはとてもまっすぐで、優しかったのを覚えている。計算だけであんな声が出せたら世間の役者は商売あがったりだ。
それに、由利亜は眠ってしまった後、蒼がそばでずっと頭を撫でてくれている夢を見ていた。慰められながら寝入ったせいだろう。
でもそれは、理由は分からないが由利亜にとってとても安心できて、穏やかな気分になれるものだった。
「あのね、由利亜。そうやって人を信じるところ、あんたの良いところだけど、信じすぎるのもどうかと思うよ?」
「うん、分かってるよ……」
由利亜は短く答えた。
(京に言ったら怒られるだろうけど、蒼さんてホントはすごく優しい人なのかもしれない……)