数日後、委員会のある京を学校に残して、由利亜は一人で帰路についていた。
 学校を出て数メートルも歩かないうちに、一台の車が由利亜のそばに横付けされる。それはよく見慣れた高級外車。
「由利亜ちゃん、こんにちは」
「あ、基さん。こんにちは」
 車の窓から顔を出したのは基。
 由利亜は彼に勧められるままにその車に乗った。
「基さん……先日はその……すみませんでした」
「あぁ、驚いたけど別に気にしてないよ」
「京のお迎え、ですか?」
「ううん、違う。ちょっと近くで用事があって、たまたま通りかかったら由利亜ちゃんの姿が見えたんだ」
 基はそのまま由利亜を華宮家まで送ってくれると言った。
「あれから、何か変わったことは? ……て、言っても数日ごときじゃ何も変わらないか」
「そうですね。特に何も。強いて言えば最近蒼さんの顔、見てません。お仕事が忙しいみたいで、あまり家にも帰ってないようで……だから余計に事態も硬直中です」
「そう。彼もあの巨大組織の上に立つ人間だからね、忙しいのは仕方ない。同い年としては、頭が下がる思いだよ。俺にはまず無理だ」
 基が言葉を終えると、それからしばらくは沈黙が続く。
 しかしそれは気まずいものではなかった。
「ねぇ、由利亜ちゃん」
 基が沈黙を破ったのは、ちょうど車が赤信号に捕まった時だった。
 なんですか? と由利亜は基の方を向く。
「由利亜ちゃん、華宮の家から逃げたい?」
「……え?」
 それはあまりに突然で由利亜は基の言わんとしている事が理解出来なかった。
 そんな由利亜に基は続ける。
「もし、由利亜ちゃんが華宮から逃げたいと願うなら、俺は由利亜ちゃんを助けたいと思うんだ。どんな手段を使ってでも君を華宮から連れ出してあげる。約束するよ」
 その時の基の顔は恐ろしいほどに真剣だった。今まで見たことが無いほどに。
 由利亜はそれだけ真剣に自分のことを考えてもらえたと思うと、それだけで嬉しかった。
「基さん、ありがとうございます」
 だから、素直にお礼を言った。
「じゃあすぐにでも手はずを……」
「いいえ、違うんです」
 基の言葉を由利亜は遮る。
「由利亜……ちゃん?」
 今度は基が由利亜の言葉の意味を解せない様子だ。
「基さんの気持ちは嬉しいです。でも……大丈夫です。わたし逃げません」
 由利亜は基に微笑んで見せた。
「本当はね、逃げたくないって言ったら嘘になります。この先どうなっちゃうんだろう、とか……一人になると結構考えますよ。華宮家を相手にしたら、わたし一人の人生狂わせるくらい何でもないでしょうしね。だけど、それを取り仕切っている蒼さんはきっと話せば分かる人だと思うんです。蒼さんはわたしに無理強いをするようなことはしないと思うので。だからわたし、今はもうちょっとがんばって蒼さんとしっかり話をしてみたいんです」
 言葉を終えた由利亜はまっすぐないい目をしていた。
 もちろん、できることなら由利亜は逃げたかった。基に甘えて連れ出して貰って、そのまま逃げてしまえばそれ程楽なことはない。
 それでも、今この時、由利亜は蒼を信じてみたかった。
 そして、蒼は本当は優しい人なのかもしれない……と思った自分の気持ちも、由利亜は信じてみたかったのだ。
「わかったよ。しつこい男は嫌われるからね、これ以上逃亡を唆すのは止めておくよ」
 基は由利亜の笑顔につられるようにフッと笑みを零す。そして、ただ一つだけ……と言葉を続けた。
「約束して欲しいんだ。もし、どうにもならなくなったら俺にすぐに助けを求めるって。言いにくければ京に言っても良い。その時は本当に、君のことを華宮から奪ってでも守ってみせるから」
 力強い言葉に由利亜は嬉しそうに笑った。
「嬉しい。わたし、なんだかお兄ちゃんができたみたいで心強いです」
 信号待ちを終え、基は車を発進させた。その時、基は由利亜に気づかれない様小さくため息を吐いた。
 基は由利亜を華宮家から少し離れたところで車から降ろした。
「婚約が囁かれてる由利亜ちゃんを門前まで送るとうまくないからね。俺はこの辺で退散するよ」
「基さん、どうもありがとうございました」
 車を降りた由利亜は、律儀に深々と一礼をする。
 親しい仲でもこういう礼儀を保つのが由利亜らしいと基は思う。
「とんでもない。じゃあ由利亜ちゃん約束だからね」
「はい。どうしても困った時には頼りにしてますよ、基お兄ちゃん」
 由利亜は言いながらバイバイ、と車中の基に手を振った。
(お兄ちゃん、か……。そう言う意味で言ったんじゃないんだけどな)
 基は由利亜に手を振り返しながらアクセルを踏みこむ。
 その時、そんな二人の仲睦まじい姿を見ている人物がいたことに、由利亜は気づいていなかった。








 由利亜が帰ると、屋敷の中ではバタバタとメイドが忙しそうに走り回っていた。
「あら由利亜様、お帰りなさいませ」
 由利亜の姿を目にとめた藤乃がその足を止める。
「ただいま、藤乃さん。何かあったんですか?」
「いえ、大したことでは。蒼様が突然お戻りになったんですよ。今日はそのような予定ではなかったんですが突然に。つい先ほどのことですよ」
「そうですか。蒼さん、またすぐ出かけてしまうんですか?」
「特別そういうお話は伺っておりませんが……。確認して参りましょうか?」
「あ、良いんです。藤乃さんはお仕事してください」
 由利亜の返答に藤乃は、そうですか、と言って忙しそうにその場を後にした。
(ちょっとだけ……会いに行ってみようかな)
 由利亜は吹き抜けのエントランスから、二階の蒼の部屋がある方角を見つめた。



 ◆◆◆



 あの晩、泣いたまま眠った日以来、由利亜は蒼に会っていなかった。
 成り行き上とはいえ、慰めてもらったわけだし、ベッドまで運んでもらったわけだし、由利亜は一応お礼を言うのが義務だし常識だろうと思ったのだ。
 コンコン……
「はい」
 ノックと共に中から蒼の声が返ってくる。
「由利亜ですけど、少しいいですか?」
「開いてる。どうぞ」
 素っ気ない返事を合図に由利亜は部屋へと入る。
 部屋の中では結構な音量でクラッシックと思われる音楽がかかっていた。由利亜には聞いた覚えのない曲だったが、美しい旋律が心地よく響いている。
 蒼は窓際に置いてある机に向かい、難しそうな表情で何枚もの書類に目を通していた。
「忙しかったですか?」
「少し」
 蒼はどうやらかなり機嫌が悪いようだった。
 辺り一面に近寄ってはいけないようなオーラが漂っている。
(仕事でなんかあったのかな? 来るタイミング……間違えたかも)
 由利亜はやっぱり良いです、と踵を返して返りたい気分だった。
 しかし、それをするのも流石に気が引ける。
「これ……何の曲ですか?」
 あまりの空気の重さに耐えきれず、由利亜は全然関係ないような話題を振った。
「星空の小夜曲セレナーデ
 蒼は書類から視線をあげず、低い声で答えた。
「セレナーデ……?」
 ふと由利亜が部屋の中央にあるテーブルを見ると、その上には『セレナーデ』とか『小夜曲』と名の付くCDジャケットが何枚も置かれていた。
(セレナーデが好きなのかな?)
 由利亜がそう思った時だった。
「それで、なんの用だ?」
「え?」
「用事があってここに来たんだろう?」
 言われて、由利亜はそうだと思い出す。
 あくまで由利亜はここにお礼を言いに来ただけであって、雑談をしに来たわけではないのだ。
「あの……お礼……言おうと思ったんです。この前、慰めてもらったし、それにベッドにまで運んでもらっちゃって……」
「それで?」
 蒼の機嫌は強烈に悪いようだった。
(優しいとか思ったの……気のせいかも)
 少なくとも、由利亜がそう思いたくなるくらいには。
「いや、それで……ありがとうございました、と言いたくて」
 ぺこりと頭を下げた由利亜に対し、蒼はゆっくりとその視線を書類からあげた。
 そして、
「今日は十分に基さんに慰めてもらって……それで俺にも礼を言えと、基さんに言われたのか?」
 聞こえたのは低く冷たい蒼の声だった。