「……え?」
 一瞬、由利亜は何を言われたのか意味が分からなかった。
「各方面で俺たちの婚約が囁かれているのに、屋敷のそばで不用意に他の男の車から降りるのはどうかと思うが?」
「……見ていたんですか?」
 蒼の言葉に、由利亜はようやく事の次第を把握する。
「たまたま、通りかかっただけだ。見かけたのが、ゴシップ記事を書く記者じゃなく俺だったことにありがたく思うんだな」
「ゴシップって……別に、やましいことはしていません。ただ送ってもらっただけです」
 情のかけらも感じられない蒼の冷めた声色に、由利亜は思わず反論する。
 すると、蒼は今まで持っていた書類を机に叩きつけるように置き、由利亜の元へとつかつかと歩み寄った。
 不覚にもそれに怯えた由利亜は、自然と背中がドアにつくまで後ずさってしまう。
 蒼はそんな由利亜をさらに追いつめるようドンと乱雑にドアに腕を付く。
「やましかろうがなかろうが、ゴシップを書く人間にとってそんなことは関係ない」
 そう言った蒼の目は恐ろしく冷え切っていた。
 鼻先数センチにその瞳を見ると怖さは倍増だ。
「蒼さん……何をそんなに怒っているんです? 基さんにここまで送ってもらったことが……そんなに咎められることですか?」
 由利亜は怖さを噛みしめつつも自分の主張を口にした。
 あの時に感じた優しさを蒼が持っているのなら、聞いてくれるはずだと思ったから。
 しかし、そんな由利亜に対し、蒼はフッと鼻で笑った。
「由利亜、一つだけ言っておく。俺と結婚するって事は、華宮の女主人であり、華宮の顔になるってことだ。旦那以外に男がいるなんて世間に知られたら色々困るんだよ。それでもあの男と別れる気がないなら、こちらも考えよう」
 蒼はそう言うと、踵を返して由利亜から離れて行った。
 由利亜は溢れそうになる感情を抑え込むように、両の拳をギュッと握りしめる。
 相手の主張を聞こうともせず、ただ理不尽に抑え込もうとする……由利亜を失望させるにはそれだけで十分だった。
「用が済んだらさっさと出て行け」
 蒼の言葉が終わるよりも前に、由利亜は勢いよく部屋を飛び出していた。
 由利亜が出て行った後、蒼は拳で机を思い切り叩く。
 ゴンッという音と共に、鈍い痛みが走り、机と接触した部分からわずかに血が滲み始める。
「くっそ……どうして、どうしてなんだよ!」



 ◆◆◆



(やっぱり……京の言う通りだったの? 今までのは全て計算で……本当は優しくなんてないの!?)
 由利亜は早足で歩きながら、自室に向かって歩いていた。
 そして、いつの間にかこみ上げてきたものを、奥歯を噛みしめて必死に堪えていた。
 今なぜ涙が出てくるのか、由利亜には分からなかった。蒼に怒られたことが怖かったのか、疑われたことが悔しかったのか、それとも優しいと信じ始めていた蒼に横暴に振る舞われたから失望したのか……とにかく由利亜の中では様々な感情が絡み合っている。
 その時だった。
「由利亜様」
 突如背中で聞こえた声に、由利亜はその足をピタッと止める。
 振り返ると、小走りに近づいてくる氷室の姿があった。
「氷室……さん?」
 由利亜は泣いていたのを隠す様に即座に涙を拭う。
「何でしょうか?」
「お呼び止めしてすみません……。その……今しがた、蒼様の部屋から何やら声が聞こえて……それで由利亜様が出ていらっしゃるのをお見かけしたもので。何か、ございましたか?」
 氷室は少し言いにくそうに由利亜の顔色をうかがう。
「いえ……別に。ただちょっと喧嘩しちゃって」
 ハハッと由利亜はバツが悪そうに笑った。
 すると氷室は、そうですか、と言って、真っ白なハンカチを一枚、由利亜に差し出してくれる。
 隠したところで泣いていることはばれていた様で……由利亜はそれを遠慮無く受け取り、まだ瞳の縁に残る涙をそっと拭う。
「お二人が、なぜ喧嘩をなさったのかは存じ上げませんが……。ひとつだけ、よろしいですか? 蒼様はね……人より少し感情表現が苦手なお方なんですよ」
 氷室は高くも低くもないちょうど良い声で、ゆったりと話し始めた。
「あのお方は幼い頃に亡くなられた旦那様に引き取られました。それから常に自分を殺して旦那様や周囲の大人たちの顔色をうかがって生活してこられたのです。旦那様はもちろん、誰もそんなことを強要したことはございません。それでも、蒼様にすれば血の繋がりのない養子だということを幼い時から気に病まれていたようで……いつでも周囲の期待通りで無ければならない、とご自分の感情を律して来られました」
「蒼さんが……?」
 由利亜は氷室の話に少し納得し難かった。
 と言うのも、由利亜の知っている蒼は常に感情的な様な気がしたからだ。
 基の車に乗っているところを連れ出された時も、ついさっきに関しても、蒼は感情的に由利亜を怒った。いずれも、必要以上だと思うくらいに激昴して。
 一方で、確かに蒼は笑わない人間だというのは由利亜も感じていた。その証拠に、これまで由利亜は蒼のこれと言った笑顔を見ていない。
 それだけに関して言えば、感情を殺してきた、という氷室の言い分に由利亜も納得が行くのだが……
「納得出来ない、というお顔をしておいでですね? それも無理はございません。蒼様は変わられたんですよ。由利亜様がいらしてから随分と感情的に、ね。……お心当たりはいくつかございますでしょう?」
 由利亜はうんうんと氷室に何度も頷く。
「実のところ、私も藤乃もそれが嬉しくてたまらないんですよ。ただ……あのお方は、まだ分からないんだと思います。今まで感情を殺してこられた分、どのようにして自分の感情を表したらいいのかをね。嬉しいことを思うまま嬉しいと言っていいのか、嫌なことを思うまま嫌だと言っていいのか……至極単純なことでも、あのお方には難しいのですよ」
 氷室は話しながら穏やかな笑みをその顔に浮かべていた。
 由利亜は何かを考えるように氷室の話に耳を傾ける。
「すみません……執事風情が出過ぎた真似をしてしまいましたね。年寄りの戯れ言とでも思ってくだされば結構です。それから、今のは二人だけの内緒ですよ? ね? 由利亜様」
 話の最後に氷室は由利亜に柔らかく笑いかける。人差し指を口の前に立てた彼が首を傾げると、彼の眼鏡の弦につながったチェーンがシャラリと揺れた。
「あの……ありがとうございます、氷室さん。わたし、今氷室さんに会えて良かったです。なるべく早く、仲直りするよう善処します。それからハンカチも、ありがとうございました。後で洗濯してお返ししますね」
 由利亜はニコリと笑って氷室に深々と一度だけ礼をした。
(もう一回だけ……蒼さんを信じてみようかな)
 いつの間にか、由利亜の中にはそんな思いが生まれていた。