「うーん。どうしよう……」
土曜の昼下がり、由利亜は唸っていた。自室のソファに座って。
氷室に仲直り宣言をしたはいいものの……三日たった今もそれは完了していない。このままでは公約言い逃げの政治家の気分だ。
「あーもう!」
それは本日数度目のやり場のない思いを由利亜が声に出した時だった。
コンコン……とドアが控えめにノックされる。
「どうぞー」
由利亜はソファーに寄りかかったまま、力なく返事をする。
すると、
「由利亜様、お願いがあるんですが……」
神妙な面持ちで入ってきたのは藤乃だった。
「どうしたんですか? 藤乃さん」
由利亜はソファーに座り直して姿勢を正す。
「あの……由利亜様、今お暇ですか?」
「まぁそれなりに」
「少し頼まれごとをしていただけないでしょうか?」
「わたしに? 良いですけど……」
由利亜の返答に藤乃はその顔にパァッと笑みを浮かべる。よほど嬉しいのだろうということが分かるくらいに。
「あの、これなんですけどね? 蒼様に届けていただけませんか?」
藤乃はそう言って書類サイズの茶封筒を由利亜に差し出した。
「これ、今朝蒼様が忘れて行かれて……。でも、今日の夕方には使う大事な書類なんです」
「そんな大切なものをわたしが?」
由利亜は大それた責任は負えないとばかりに、すぐさま確認し直す。
「ええ。由利亜様だからこそです。氷室は所用で出かけてしまって、わたくしはここを空けるわけには参りませんし、頼りの竜臣は本日急遽お休みをいただいておりまして……」
藤乃は少し俯いて困っていますアピールを由利亜に見せつける。
そんな顔をされては由利亜が捨て置くはずもなく……
「じゃあ……良いですよ? それでどちらに?」
「行っていただけるんですか? でしたら、大学の方に。蒼様、今日は四時までは大学にいらっしゃるって仰ってましたから」
藤乃は、お願いしますね、と言うと茶封筒を由利亜に渡して出て行ってしまった。
◆◆◆
「藤乃さん!」
「あらどうしたの、竜臣?」
由利亜の部屋を出てすぐに藤乃は呼び止められた。休みを取っているはずの竜臣から。
藤乃は人目につかないようにそのまま竜臣を物陰に引き入れる。
「蒼様の部屋にあるはずの書類が見あたらないんですが、何か知りませんか? 華宮の社章がある茶封筒に入ったものなんですが……。蒼様から取ってくるよう言われて」
「それならね、由利亜様に届けてもらうことにしたから大丈夫よ」
「由利亜様に!?」
思わず声を上げてしまった竜臣に、藤乃は口の前に人差し指を立ててシィッと言った。
「蒼様と由利亜様が最近ギクシャクしてるのはあなたも知っているでしょう?」
「まぁそれは一応……仕事にも多少支障が出ていて困っていますから」
「でしょう? ああいうのはね、仲直り、のきっかけとタイミングが必要なのよ。わたくしだって伊達に歳重ねてきたワケじゃないわ。ま、そういうことだから、竜臣、今日はもうお休み取って帰って良いわよ」
藤乃はフフッと笑うと、スキップでも始めそうな軽やかな足取りでその場を去っていった。
「きっかけとタイミングねぇ……」
竜臣は藤乃の言葉を繰り返しながら、小躍りでもしそうな勢いの藤乃の後ろ姿を見ていた。
『蒼様がいる場所はここです。この場所を守衛室に聞いたら連れて行ってくれますよ』
由利亜は、藤乃が渡してくれた研究室名らしきものが書かれたメモを持って大学構内を歩いていた。
「だいたい……守衛室ってどこなのよ?」
何も考えず大学に来てみたは良いものの、何よりもまず頼みの守衛室が見つからない。しかも今日が土曜日であるためか、構内の人通りも少なく声をかける人を探すのも一苦労だ。
それは、だだっ広い構内で由利亜がいい加減途方に暮れかけていた時だった。
「どこか、お探しですか?」
由利亜は突然、声がした方を振り返った。
見ればそこには白衣を着た女性が立っている。
彼女は生物系と思われる図柄の入った本を何冊か抱えており、どこからどう見ても理系という感じだ。
由利亜は少しだけ彼女に見とれていた。
細身の長身に白衣を纏った彼女――その姿はとても凛としている。
彼女は化粧もうっすらと施している程度で、白衣の下の洋服もカットソーにジーンズという相当ラフな格好なのに、由利亜は綺麗だという印象を持つ。
また、器用に束ねられた黒髪が大人っぽさと利発さを醸し出していて、由利亜は自然と彼女に見入っていたのだ。
「あの、どこか……お探しなんですよね?」
「え? ……あ! はい。お探しです!!」
返事のないため再び訪ねた女性に対し、由利亜は慌てて答えた。
女性はクスリと笑みを零す。
そこで初めて、由利亜は自分が変な日本語を使ったことに気づいた。
「どちらをお探しですか? よろしければご案内しますよ」
女性は微笑みを残しながら言った。
「えっと……ここなんですが。分かりますか?」
由利亜は藤乃の持たせてくれたメモを女性に差し出す。
「B棟四階の国際経済政策学……」
女性はメモを読みながら、不意に由利亜が小脇に抱えている封筒に目をやった。
「あの……もしも間違いだったらごめんなさいね?」
彼女は、由利亜とメモを交互に見る。
そして……
「あなた、由利亜ちゃんじゃない?」
「……え?」
「榊由利亜ちゃんでしょう?」
「そう……ですけど」
突然の問いかけに由利亜は怖ず怖ずと答える。
一体、なぜこの初対面の女性が自分の名前を知っているのか、それもフルネームで言い当てられたのか、由利亜には皆目見当も付かない。
だが、そんな由利亜にお構いなしに、女性はキャッと声を上げて、やっぱりね、と喜んだ。
「由利亜ちゃん、蒼に会いに来たんでしょう? 蒼からよく聞いているの。由利亜ちゃんのこと」
「あ……はい……その……」
由利亜は今何が起こっているのか分からなかった。
ただ、『蒼』という彼女の口から出た呼称で、今目の前にいる女性が蒼とかなり深い付き合いなのだと言うことは感じ取れる。
だが一体、彼女は何者なのか……――
「あ、ごめんなさい。わたし、まだ自己紹介してなかったわよね!? わたしね、
困ったような由利亜の顔に、深知留は思い出したように慌てて自己紹介を始める。
「由利亜ちゃんビックリした? そりゃビックリしたわよね!? 突然変な女に呼び止められて、馴れ馴れしく名前聞かれたら驚くわよね? 話だけは蒼からよく聞いてるから、由利亜ちゃんとは今日が初対面、って気がしなくて……。ごめんね〜。別にわたし変態さんじゃないから!」
急に慌てふためき、焦って弁解を始めた深知留を見ながら、由利亜は何だかおかしくなって笑ってしまった。
そして、気さくで可愛い人だな、と素直に思う。
深知留はそれからすぐに由利亜を蒼の元へと案内してくれた。