京と別れて帰宅すると、藤乃が待ち構えていたように由利亜を迎え入れた。そして、帰宅の挨拶もそこそこに由利亜をある部屋へと連れて行った。
「……何なんですか?」
 由利亜が連れてこられたのは衣装部屋のようで、壁一面に様々な服が掛けられていた。それはもう、ここはどこかのブティックか、というような量の服が置いてある。
 今ひとつ事態が飲み込めない由利亜はすぐに藤乃に説明を求める。
 しかし、藤乃はそんなのお構いなしにあらかじめ見繕ってあったと思われる服を手に持ち、由利亜に合わせ始めた。
「由利亜様、ブルーとピンクどちらがお好きです?」
「あの……そんな事じゃなくて、一体これは何なんです?」
「あ、暖色系ならオレンジもお似合いですね」
「藤乃さん!!」
 話を聞く気がない様子の藤乃に由利亜はつい声を荒げてしまった。
 すると
「ご心配なさることは何もございませんよ。ただデートの支度をしていただくだけです」
 藤乃はサラリと答える。
 だが、
「デ、デートぉ!?」
 由利亜はその一言に驚きの声を上げる。
「はい、そうです」
「誰と誰が?」
「嫌ですわぁ、由利亜様ったら。由利亜様がデートする相手と言ったらお一人しかいないじゃないですか」
 藤乃は、ふふっと笑みを零す。
「蒼さんと……ですか?」
 答えの代わりに藤乃は由利亜に満面の笑みを見せた。大正解ですよ、とばかりに。
「今日の六時に帝都大近くのロータスロイヤルホテルの噴水前で待ち合わせですって。ホテルのレストランを予約してあるからと先ほど蒼様からご連絡がありました。夕食をご一緒に、と」
「夕食を?」
「えぇ。そういうわけですので、パパッと支度しちゃいましょうね」
 そう言うと、藤乃は嬉しそうにパンパンと手を叩いた。
 それを合図に、部屋の外で控えていたと思われるメイドが数名入ってくる。
「あなた達、お洋服はこのワンピースでお願いね。髪は綺麗に結って。それから少しお化粧も。良いわね?」
『かしこまりました』
 藤乃の指示にメイドたちは一斉に了承の意を述べる。
「では、由利亜様。わたくしは別に仕事がございますので失礼しますね」
「ちょ……ちょっと藤乃さん!?」
 由利亜の呼びかけも虚しく藤乃はさっさと部屋を出て行き、指示を受けたメイド達は一斉に由利亜をレディに仕立て上げるべく準備に取りかかった。



 ◆◆◆



 部屋を出た藤乃はすぐにある場所へ電話を入れた。
「そう。六時よ。間違えないでちょうだいね。由利亜様が蒼様に大切なお話があるそうよ。だからそう伝えてちょうだい。頼んだわよ」
 電話を終え、藤乃が受話器を置いた時だった。
「……また悪巧みですか? 藤乃」
 藤乃が振り返るとそこには氷室が立っている。
「あら、ひーちゃん」
「その呼び方は止めなさいと言ったでしょう。誰かに聞かれたらどうするんです?」
「誰も聞いちゃいないわよ。良いじゃない別に、長い付き合いなんだから。それに人前ではきちんと呼んでいるでしょう? 氷室サン」
 藤乃の屁理屈に氷室は小さくため息を吐きながら肩を竦める。傍目から見ればいい歳をしたおばさん、下手をすればおばあさんと言われる年頃なのに、いつまで経ってもイタズラっぽい仕草を見せるのは本当に昔から変わらない、と氷室は一人思う。
「だいたい、ひーちゃんこそ盗み聞きするなんてどういうつもり?」
「盗み聞きとはまた人聞きが悪い。たまたま通りかかったら聞こえてしまっただけです。これでもまだ耳は遠くなっていませんからね。……それで、今度は何を企んでいるんですか?」
 氷室はいくらか落ちかけた眼鏡を戻すようにクッと押し上げた。その拍子に弦につなげられたチェーンがシャラリと揺れる。
「別に変な企み事なんてしていないわ。ちょっとお二人に仲直りをしてもらいたい、ただそれだけよ」
「それなら、藤乃が出しゃばらなくても、お二人なりに何とかやっていきますよ。心配しなくても、由利亜様ならあの蒼様を理解し、支えられるはずです。何と言っても……あの有希子の娘ですからね」
 氷室は言って、眼鏡の奥の目をわずかに細めた。
 その瞬間、まるで言葉に刺激されるように、氷室の記憶の中で有希子の姿が呼び起こされる。
 氷室が初めて有希子と会ったのは彼女がまだ十八――今の由利亜とそう変わらない歳の時だった。
 高校を卒業してすぐにこの華宮家でメイドとして働き始めた有希子。明朗快活な子でいつもニコニコと笑顔を振りまいてくれた。
 その笑顔には何かしら力があるようで、見ているとこちらまでも顔が綻んでしまったのを氷室はよく覚えている。とても不思議な子であった。
 有希子が屋敷に来たのは、早次郎の妻、好江よしえが亡くなって数年後のことだった。
 当時の華宮家は陰湿な空気に満ちていた。
 好江が健在であった頃は笑顔の絶えない明るい家であったのに、彼女の死後は火が消えたように暗くなってしまった華宮家。
 一人息子の崇も小さい頃はよく笑う子であったのにいつの間にか笑顔を忘れ、常に何かに追われているような暗い顔をしていた。
 あの時の華宮家は病んでいたのだ。
 しかし、有希子が来てからしばらくすると屋敷は徐々に明るくなった。それはまるで長い冬に春が訪れたかのように。
 気が付けば崇もいつの間にか笑顔を取り戻し、笑っていることの方が多くなった。崇が笑っている時にはいつも有希子がそばにいた。
 そして、いつの頃からか崇の視線はいつでも有希子を追っていた。
 一方で、有希子もまた……――
「……娘、だからよ……」
「え?」
 呟くように言った藤乃の言葉に、ふと我に返った氷室は思わず聞き返した。
「有希子の娘だから……例えお節介でも、なんとかしてやりたいのよ」
 氷室は何も言わずにただ藤乃の顔を見やる。
 彼女の表情はいつの間にか曇っていた。その顔はなんだかとても深い哀愁を漂わせている。
 この時、藤乃もまた、氷室の言葉で有希子のことを思い出していた。
 いつも明るく、優しく、そして誰にでも分け隔て無く純真な笑顔を見せてくれた有希子。
 藤乃はそんな有希子を実の娘のように可愛がっていた。息子しかいない藤乃は「わたしも娘が欲しかったわ」と有希子にいつも言っていた。
(今でも鮮明に思い出せる……可愛い有希子……)
 そして、いつの間にか、藤乃の脳裏にはあるシーンが呼び起こされていた。
 それはあの日……有希子と崇が隠れるように華宮家を出て行った日……――
 崇と寄り添って屋敷の門をくぐる有希子は、不安に怯える様な、悲しそうな顔で何度も何度も後ろを振り返っていた。
 藤乃はそれを自室の窓から見ていることしかできなかった。ただ見て見ぬ振りをして、どうか二人が幸せになれるように、とそっと見送ることしかできなかったのだ。
 周囲が頑なに反対をした彼ら二人の関係――しかし、藤乃はそうではなかった。
 出来ることなら、二人を一緒にしてやりたかった。愛し、愛され、求め、求められたのであれば、それで良いと、彼女は思っていた。
 何より、有希子も崇も、二人でいる時が一番幸せそうであったから。身分差などというつまらない理由よりも、その幸せな気持ちが大切なのだと藤乃は思っていた。
 しかし、一介のメイドでしかない彼女には、彼ら二人をどうしてやることも出来なかったのだ。両手放しで応援してやることさえ出来ず、ただ見守ること、それしか出来なかったのだ。
 あの日の泣きそうな有希子の顔――それは今でも藤乃の脳裏に強く焼き付いている。いつも笑顔しか見せない子であったのに、それが藤乃が最後に見た有希子の顔になってしまったから。
「わたしは……あの子の、有希子のために……何もしてあげられなかったから……ね」
 再び呟くように言った藤乃は年を重ねたその顔に皺を寄せ、悲しそうに笑った。