放課後、由利亜と京は連れだって帝都大へと来ていた。
 京が付き合って欲しいと言ったのは帝都大の基のところだった。
 何でも、基は今夜からアメリカに出かけるらしい。というのも、アメリカで開かれる国際学会に出席するはずだった先輩が、数日前に体調を崩したため基が急遽ピンチヒッターに選ばれたとのことだ。
 今夜、基は学校から直接空港に向かうことになっていたが、忘れ物をしたので京がそれを届けに来たというわけだ。
 基はかなり追い込みのようで、京はすぐに用事を済ませてくるから、と由利亜を構内の中庭において行ってしまった。
 すっかり手持ち無沙汰になってしまった由利亜は、ベンチに腰掛けながらふと思い立って蒼にメールをしてみた。
(確か……蒼さん、夕方は大学に寄るって言ってたわよね)
 もしも彼が構内にいるのなら、そのまま落ち合っても良いと思ったのだ。
 しかし、メールを送ってしばらくしても返信はなかった。
 蒼は由利亜がメールを送るとすぐに返してくれる。それを考えれば、今は取り込み中であることが伺えた。
(……会社かな? 会議とか、長引いてるのかも。大学にはまだいないか……)
 由利亜は携帯電話とにらめっこをしていたが、しばらくして諦めるとそのまま鞄にしまった。
 またもやすることが無くなってしまった由利亜は目的もなく当たりを見回す。
 すると、
(あれ……?)
 見たことのある人物が少し離れたところにいるのが見えた
(深知留さん……?)
 由利亜はベンチから立ち上がり、そう思われる人物に目を凝らした。
(……やっぱり、深知留さんだよね)
 それは確かに深知留だった。
 前回と同じように彼女は白衣を羽織っている。しかし、ゆるくウェーブのかかった綺麗な黒髪は今日は束ねずに垂らしていた。
 彼女はゆっくりと歩きながら誰かと話しているようだった。相手は由利亜の位置からだと木の陰に隠れていて男か女かも見えない。
「深……」
――深知留さん
 由利亜はそう呼びかけながら駆け寄ろうとしたが、踏み出して一歩でやめた。
 なぜなら、その瞬間、見とれてしまうほどの笑顔を深知留が見せたから。
(彼氏と一緒なのかな?)
 由利亜はフフッと笑みを零しながらそう思ってしまった。
 だってそう思うほどに深知留は可愛らしい素敵な笑顔を見せていたから。
(やっぱ……邪魔しちゃ悪いよね)
 由利亜が元のベンチに座って再び京を待とうとした時だった。
 鞄の中で突然携帯電話が鳴る。
「も、もしもし!?」
『あ、由利亜?』
「なんだ、京か……」
『何だとは何よ。失礼ね』
 明らかに声のトーンが下がった由利亜に京が不服そうに言う。
 慌てて電話に出た由利亜は着信表示を見ていなかったため、すっかり蒼からだと思いこんでいたのだ。
「どうしたの? まだ掛かりそう?」
『あ、うん……悪いんだけど、由利亜先に帰ってくれる? お兄ちゃん、今見あたらなくて……わたし、もう少し待ってみるから先に帰って? 蒼さんと約束があるんでしょう? 遅れたら困るし』
「そっか。分かったわ。じゃあ先に帰るね」
『うん。せっかく来てくれたのにごめんね。由利亜、ありがとう』
 由利亜は電話を切った後、何かを思いついたようにベンチから立ち上がった。








「えっと……確かこの辺だったよねぇ? もぉ〜、大学ってなんでこんなに広いのよ……」
 由利亜は記憶を頼りにしながら、蒼の研究室を探していた。
 未だメールは返ってこないものの、蒼が大学にいる可能性もあると思った由利亜は彼の研究室を訪ねてみることにしたのだ。
 しかし、前回来たから行けるはず、という考えが甘かったのか、構内のあまりの広さに由利亜はあっちでもない、こっちでもない、と歩き回るハメになった。
 しばらくして、由利亜はようやく見覚えのある廊下と研究室のドアを発見した。
 コンコン……
「はい」
 ノックをするとすぐにガチャリ、という音と共に中から学生と思われる女性が顔をのぞかせた。
「あの……すみません。こちら、国際経済政策学の教室ですよね?」
 由利亜は一応、蒼が所属する研究室名を確認してみた。
「そうですけど……。もしかして、見学ですか?」
 女子学生は由利亜の姿を上から下までよく見て尋ねた。
 それも無理はない。
 制服姿の女の子が突然訪ねてきているのだ。そう思うのが普通だろう。
 ここに来るまでも、由利亜は何度か大学生らしき人たちに振り返って見られた。
 大学という場所で、この制服姿というのは案外目立つものだ。
「いえ……違うんです。あの、人を探していて……こちらに、華宮蒼さんていらっしゃいませんか?」
「あ、華宮さんのお知り合い? もしかして、妹さん? ……ちょっと待ってね」
 女子学生は納得した様子で、部屋の中に顔を向けた。
「ねぇ、誰か華宮さんどこだか知らない? さっき、来てたわよね?」
「えー? そうだっけ? わたし、今日見てないよ?」
 中から別の女子学生と思われる声が聞こえる。
「嘘ぉ。さっきまでいたじゃない。教授と話してなかった? それに……携帯、机の上に置きっぱなしにしてたし」
 中に話しかける女子学生の言葉に、由利亜はなるほど、と思った。
(通りで返信がないはずだわ。でも、大学にはいたんだ)
「ねぇ……誰か華宮さん見てない?」
 女子学生が再び尋ねた。
 すると、
「あぁ、華宮さんならさっき図書館にいたぞ」
 部屋の中から今度は男性の声が聞こえた。
「あ、そうなの。……図書館だって。行ってみる? 場所、分からないわよね?」
 女子学生が再び由利亜の方に向き直った時だった。
「なぁ、ちょっと待って……」
 中から聞こえてきた声と共に、一人の男子学生が部屋から出てきた。
 どうやら先ほど答えた人物らしく、彼は由利亜の姿をチラリと見ると軽く会釈をした。
「ここで華宮さんが戻ってくるの待ってた方がいいと思うんだけど……」
「何でよ。図書館で見たんでしょ? だったら行った方が早いじゃない。場所だって教えてあげれば行けるわよ」
「いや……でも……」
 男子学生は明らかに言葉を濁す。
 そいて、彼は再び由利亜の方をチラリと見た後、声を潜めて女子学生にだけ聞こえるように囁いた。
「あのさ……俺が見た時、その……天音さんが一緒でさ……」
(天音……?)
(それって……確か深知留さんの姓だよね? 深知留さんのことかな?)
 男子学生の話す一部が漏れ聞こえてしまった由利亜は、すぐに深知留を思い出した。
(蒼さん、深知留さんと一緒なのかな?)
 女子学生はそのまま男子学生の話をしばらく聞くと、何かを納得したように、あぁ、と小さく声を漏らした。
 彼女はそれからすぐに、男子学生と同じような気まずそうな表情を由利亜に見せる。
「あのね……あなた、やっぱり、ここで待っているのはどう? それに図書館に行くのに迷っても面倒だしね?」
「それなら……ここにくる途中で見かけたので、たぶん行けると思います」
 由利亜は答えながら、見かけたそれらしき建物を思い出していた。それが間違えなければ、たぶんここから五分と掛からずに行ける。
「でも……図書館って広いし、行ったところで華宮さんが見つかるとは限らないわよ? 擦れ違ったら大変だし、だから……やっぱりここで待ったら?」
 女子学生はなぜか故意的に由利亜を引き留めようとした。
 しかし、由利亜には彼女がそうする理由が分からなかった。
「いえ。わたし、少し探してみますから。……どうもありがとうございました」
 由利亜は彼女にぺこりとお辞儀をして踵を返した。
 その時だった。
「ねぇ、待って……華宮さん、今図書館で彼女さんと一緒なんですって。だから、邪魔しない方が良いわよ?」
(…………?)
 由利亜が彼女の声に気づいて振り返るのと、女子学生が言葉を終えるのはほぼ同時だった。
 耳になだれ込んできた言葉のうち一カ所が、由利亜の中で確実に引っかかる。
「だから……ここで待っていると良いわ。ね? 今、真剣な話、しているみたいだし」
 女子学生は部屋の中を手で指し示し、どうぞ、と誘ってくれていたが、そんなものはその時の由利亜には聞こえていなかった。
(今……この人、何て……言った?)
(蒼さんの……彼女……?)
 この時、この瞬間、由利亜は自分の耳を疑わざるを得なかった。