由利亜はおぼつかない足取りで構内を歩いていた。その顔も唇も見るからに真っ青で、今にも倒れてしまいそうだ。
 あれから「用事を思い出したので……」と絞り出すように言ってあの場から走り去った由利亜は、ここまでどうやって来たのかすら良くは覚えていない。
 
『さっき、天音さん……て言いましたよね? それ、天音深知留さんのこと……ですか?』
 由利亜はあの後、何かを考えるより先に女子学生にそう聞いていた。
『あら、天音さんを知ってるの? そう、天音深知留さんよ』
 女子学生は、意外、と言う顔で答えた。
 そして、
『その天音さんて……蒼さんの彼女……なんですか?』
 気づいた時にはそう言葉を紡いでいた由利亜に、女子学生はニコリと笑って答えた。
『そうよ、ホント仲の良い恋人同士よね。もう長いんじゃないかしら。よく知らないけど幼なじみでかなり昔からつきあってるみたい』
 彼女はこうも言った。
『最近、華宮さんがどこかのお嬢様と婚約するとかいう話も聞いたけど、ホントのところは嘘じゃないかしらね。卒業したら天音さんと結婚するって前々から噂だし』
 その瞬間は何を言われてるいるのかさえ理解できなかったのに、しばらくの時間を経て、女子学生が言った台詞はそっくりそのまま由利亜の頭の中で何度も何度も流れていた。
――蒼ノ彼女ハ深知留
 その事実に、由利亜は酷く衝撃を受けていた。
 しかし、由利亜は自分が衝撃を受ける意味が分からなかった。
 だからそれをかき消そうと言い訳をした。
(深知留さんが……彼女の方が、わたしは都合が良いはずじゃない……)
(深知留さんが彼女なら……望まない結婚、しなくていいんだよって……京も言ってたじゃない……)
 もっとたくさん、一生懸命に言い訳を考えようとしたが、由利亜の中でそれ以上は出てこなかった。
 由利亜は鞄の持ち手をギュッと握りしめる。
(何となく……分かっていたことでしょう?)
 だから、今度は自分で自分に言い聞かせるようにした。
 初めて深知留に会った時のことが由利亜の脳裏で自然と思い出される。
 蒼とは幼なじみだと言ったが、それ以上のものを感じざるを得ないほどに二人は仲良く楽しそうだった。誰も割り込むことはできない……そんな風に思うくらい。
(やっぱり……彼女だったのよ……)
 そして、由利亜は先ほどの深知留の笑顔を思い出していた。
 見とれてしまうほどの可愛らしい素敵な笑顔。
(あの時……きっと、蒼さんと……一緒だったんだ……)
 そう由利亜が納得しようとした時、別の映像がフッと頭をよぎった。
 それは、レストランで一緒に食事をした日、由利亜にセレナーデの話をした時の蒼の顔。
 あの時の彼は、愛する人に今にもセレナーデを奏で始めるのではないかと思うような、優しく穏やかな表情をしていた。
 由利亜はそれを今でも良く覚えている。
(あぁ……あの時……蒼さんが見ていたのは……)
(…………深知留さん)
 由利亜の思考がそこまで行き着くのに大して時間はいらなかった。
 行き着いた瞬間、由利亜の胸はズキンと音が出るほどに強く痛んだ。
 苦しくて、どうしようもなくて、由利亜は痛みを殺すように制服の胸の部分を握りしめる。
 その時だった。
 ドン……
 ふらつく足取りで歩いていた由利亜は人に誰かにぶつかったようだった。
「イテ……」
 呟くような声に気づいて由利亜が顔を上げると、そこにはあまり柄の良くない男子学生が二人いた。
「……すみま……せん」
 由利亜は消えゆくような声で言うと、そのまま元のようにふらふらと歩き始める。
 が、
「ねぇ、ちょっと待ちなよ」
 ぶつかった男子学生は、去ろうとした由利亜の腕を少し強引に掴んだ。
「君……高校生でしょう?」
 男子学生は由利亜の腕を掴み、舐めるように彼女を見ていた。
 しかし、その時の由利亜はそんなことどうでも良かった。
「学校見学に来たの? よかったら俺らが案内してあげようか」
「…………」
 由利亜は男子学生に対して無表情かつ無反応。むしろ、由利亜に彼の声など聞こえていなかった。
 頭に浮かぶのは深知留の顔ばかりで、由利亜は自分がおかしくなったのかと思うほどだった。
 そんな由利亜の様子を了承と解釈したのか、男子学生は由利亜の手をグイッと引いた。
「じゃあ、行こうか? 面白いところ、たくさん見せてあげるよ」
 由利亜の体が、引かれた反動で男子学生に近づいたその時だった。
「由利亜!」
 どこからともなく聞こえた声に由利亜の肩はピクリと動いた。








 時は少し遡る――
 図書館で必要な本を見繕った蒼は、貸し出しの手続きを取って図書館を後にした。
 ふと、腕時計を見ると図書館に入ってから既に一時間以上が経過している。
(もうこんな時間か……)
 深知留とたまたま会ったせいでちょっと本を借りるつもりが少し時間をくってしまった。
 それでも、まだ由利亜との待ち合わせまでには十分に余裕がある。
(あと少し、頑張るか)
 そう思って蒼が時計から視線をあげた時だった。
 視界の端を、見覚えのある色味がスッと過ぎった。
(…………?)
 見間違えかと思い、蒼はすぐに意識して見覚えのあるそれを追った。
(由利亜?)
 色味が由利亜の制服に似ていたような気がして一瞬そう思ったが、蒼がどれだけ見回してもそれらしき姿はもう見当たらなかった。
(見間違えか……。由利亜がこんな所にいるわけないな)
 蒼は一人納得して研究室へと歩き始めた。








「由利亜!」
 突如呼ばれた名前に、由利亜は焦点の合わないうつろな視線をゆっくりと上げた。
 視界に収まった人物に由利亜は一気に焦点を合わせる。
(……深知留さん……)
 そこにいたのは紛れもなく深知留だった。
「由利亜、こんなところにいたの? 探したのよ」
 深知留はそう言って、男子学生などお構いなしに由利亜の手を取り自分の方へと引き寄せた。男子学生も、突然のことに驚いたのか、由利亜の手を容易く離す。
 深知留は由利亜を自分の背に隠すように立つ。
「あなたたち、わたしの妹に何か用事?」
「あ、いえ……別に」
 にっこりと微笑みかけた深知留に対して男子学生は言葉に詰まり、そのままそそくさと何事もなかったかのようにその場を去ってしまった。
「全く……ろくなことしないんだから。由利亜ちゃん大丈夫?」
 深知留はため息混じりに逃げていった学生を見送ると、振り返って由利亜の顔をのぞき込んだ。
 由利亜は無意識にその顔を背ける。
 なんだか深知留の顔を見るのが無性に嫌だった。
「恐かったでしょう? 由利亜ちゃん、蒼に会いに来たの?」
「…………」
 深知留の問いかけに由利亜は答えなかった。
「もしかして、道に迷っちゃった? ここ広いもんね」
「…………」
 優しく話しかける深知留に由利亜はジッと押し黙っていた。
 今は深知留と話したくはなかったのだ。
 気づけば、以前に感じたことのあるモヤモヤとした嫌な気分が由利亜の心を埋め尽くしていた。それは、とどまるところを知らずに増殖していく。
 やがて、由利亜は深知留の声に、表情に、仕草に、苛つきを覚えていた。
 それがなぜなのか、その理由は由利亜本人にも分からなかった。
 ただ、
(この人が……蒼さんの、彼女……)
 それだけを由利亜は思っていた。
 この笑顔が、この声が、この体が、蒼の恋人なのだ、と確認するかのように、何度も何度も。