「由利亜ちゃん、蒼ならさっきまで図書館で一緒だったから、今は研究室にいると思うわ。良かったら一緒に行きましょう? また変なのに絡まれたりしたら困るし、何より心配だからね」
それは、深知留が微笑みかけながら由利亜の手を取った時のことだった。
パシ……
そんな乾いた音を放って由利亜は乱雑に深知留から自分の手を振りほどく。
「……由利亜、ちゃん?」
深知留は一瞬、何か悪いことでもしたのかと不安そうな顔を見せる。
そんな深知留に対し、由利亜は険しい顔で地面を見つめていた。
由利亜の深知留への苛つきはいつの間にかピークに達していた。
「……さ……いで……」
「え?」
深知留は由利亜の唇からこぼれ出た小さな小さな声を聞き直す。
そんな深知留を、由利亜は涙がいっぱいにたまった目で睨み付けた。それは、どす黒い感情が凝縮された鋭い目……――
由利亜はもう自分を制御出来なかった。
「触らないで! わたしのことなんて放っておいてよ!!」
忌々しく吐き捨てるように言って由利亜はその場を走り去った。
「え!? 由利亜ちゃん? ちょっと……由利亜ちゃん!!」
由利亜は両手で耳を塞いで、深知留の声を聞かないようにして走った。
(嫌だ……もう嫌だ……)
(……苦しい……誰か、助けて…………)
「蒼!!」
蒼は図書館から研究室に戻ってきたところだった。ちょうど研究室のドアに手を掛け半分ほど開いた時、叫ぶようなその声が聞こえたのだ。
見れば、廊下の端からつい先ほど図書館で別れた深知留が走ってくる。
近づくと、深知留の顔は随分と険しかった。
「深知留、どうかしたのか?」
蒼は何かを察してその表情をわずかに硬くする。
「蒼……由利亜ちゃんに会ってない?」
深知留はどこから走ってきたのか、荒げた息に肩を上下させながら尋ねた。
「由利亜……? 会ってないけど。あいつ……大学に来てるのか?」
すると、戻ってきた蒼に気づいた女子学生が席を立って蒼と深知留の元へやってきた。
「華宮さん。もしかして……それ、女子高生の子のことですか?」
女子学生は蒼と深知留の会話を聞いていたようだった。
「あなた、由利亜ちゃんに……その女子高生に会ったの!?」
深知留は掴みかかる勢いで彼女に尋ねる。
「え……はい。ついさっきここに来て……華宮さんの妹さんですか?」
「それで? 来てどうしたの?」
その勢いに気押されて怖ず怖ずと答える女子学生を余所に、深知留はさらに質問を重ねる。
「あの……帰っちゃいました」
「帰った?」
蒼が訝しげな顔を見せる。
女子学生は少し都合が悪そうに視線を蒼と深知留から外し、そして窓辺に座る男子学生を見る。
「彼から華宮さんと天音さんを図書館で見たって聞いて……それで、真剣に話し込んでたって聞いたので、邪魔しない方が良いかなぁと思って……。だから、その……彼女さんと一緒だから帰ってくるまでここで待ったら? って言ったんですけど……用事を思い出したとかで、帰っちゃいました」
女子学生の言葉を聞きながら、みるみる顔色を変えた蒼は彼女の言葉が終わるよりも早くチッと舌打ちをした。
そして、
「え!? ……は、華宮さん!?」
驚くような女子学生の声を背中で聞きながら、蒼は何を考えるより先にその場を掛けだしていた。
「あの……彼女に、言っちゃまずかったですか?」
女子学生は蒼が去った後、体裁が悪そうに深知留に尋ねる。蒼の反応に、どう考えても自分がしてはならないことをした様だと彼女は気づいた様子だ。
深知留は答える代わりに小さくため息を吐いた。
そして、蒼の後を追うように深知留も掛けだした。
京は自分の腕の中で肩を震わせる由利亜の背を優しく何度もさすっていた。もう既に一時間ほどはこうしている。
京はこんなに泣く由利亜を未だかつて見たことがない。
由利亜から京に突然の電話が掛かってきたのは今から二時間ほど前だ。帰ったはずの由利亜からの電話に驚いて出てみると、彼女の嗚咽だけが聞こえた。
「どうしたの!?」
京がそう何度も尋ねるとしばらくして、
『助けて……』
と消え入りそうな由利亜の声がした。
事態を飲み込めなかった京であったが、とりあえずそれで非常事態であることだけは理解した。
その時、まだ大学構内にいた京は由利亜がそこにいることを聞き出すと、すぐに迎えに行き、そのまま自分の家へと連れ帰った。
由利亜はあの電話から泣き続けたままだ。
京はそんな由利亜に何かを問うわけでもなく、黙って辛抱強くそばにいてやった。
由利亜に何があったのか、京には何も分からなかった。それでもなぜか、蒼と何かがあったことだけは薄々感づいていた。
「あの……ね……」
泣き濡れた小さな小さな声で由利亜がそう言ったのは、随分と時間が経ってからだった。
「どしたの?」
「…………」
京の問いかけに由利亜は再び口を噤んでしまった。
そんな由利亜に京はよしよしと頭を撫でてやる。
「いいよ。言いたくないなら何も言わなくても。由利亜、何か辛かったんだよね? 寂しかったんだよね? それだけは分かるから……だから無理して言わなくていい」
そう言った京に由利亜はフルフルと首を横に振った。
そして、京の優しさに溢れ出そうになった涙を拭い、由利亜は京と会った後に起こったことをポツリポツリと話し始めた。
◆◆◆
「そっかぁ……」
話を聞き終えた京はそう言って、由利亜の頭をポンポンと撫でるように叩いた。
「……蒼さんと深知留さんが付き合ってることなんて……何となく分かってたのに……。何でか、ショックで……苛々して……苦しくて、そのうち何がなんだか分からなくなって……」
由利亜は再び顔を両手で覆う。
京の家に来るまでに何が起こったのか……はっきり言って由利亜には理解出来ていなかった。
そもそも、蒼と深知留が恋人同士であることを知ったあの瞬間から、何かがおかしくなったのだ。
いつの間にか由利亜の中で得体の知れないモヤモヤとした複雑で黒い気持ちが増殖し出し、気づいた時には深知留に酷いことをしていた。
「深知留さん……何も、何も悪くないのに……。優しくしてくれただけなのに……わたし、わたし凄く酷いこと…………」
自分が感情のままに深知留にしたことを、今の由利亜は本当に反省していた。
深知留はただ、男子学生に絡まれた由利亜を助け、よかれと思って優しくしてくれたのに……由利亜はそれを受け入れられず、拒否してしまった。
しかし、あの時、あの瞬間だけは由利亜はどうしても自分の感情がコントロール出来なかったのだ。
とにかく無性に、深知留を許せない、とそれだけを思っていた。
自分の行動を思い出して涙をポロポロとこぼす由利亜を、京はギュッと抱きしめてやる。
「あのさ……由利亜」
京は語りかけるように話し始めた。
「由利亜はその時、深知留さんに何で酷いことしちゃったのか、分かる? それに今、どうしてこんなに泣いているのか、も……分かる?」
「…………」
由利亜は答えなかった。
「ねぇ、由利亜……本当は、分かってるよね? ……ううん、分からなくてもいい。もう、気づいてるよね? 自分の本当の気持ちに」
「…………」
由利亜は再び回答を拒否する。
しかし、京はそれに構わずに続けた。
「由利亜、蒼さんのこと好きなんでしょう? 好きだから深知留さんに酷いことしちゃったんでしょう? それに、好きだから……泣いているのよね?」
(…………)
言われて、由利亜の心臓がトクンと一つ脈打った。
京の顔を見れば、彼女はまっすぐな目で由利亜を見つめている。
それは由利亜が自分でも気づいていないような、心の奥底の気持ちを見透かすかのようで……由利亜は少し怖くて京からスッと視線を外す。
「由利亜……少なくとも今の由利亜にとって蒼さんは特別な存在……そうよね?」
再び尋ねた京の言葉に由利亜はすぐには答えない。
しかい、数拍の間をおいて、わずかではあったがコクンと頷いた。