――特別な存在
 一体、いつからだったろう……由利亜の中で蒼の存在が大きくなり始めたのは。
 出会ったばかりの頃は、そんなこと微塵も思わなかった。
 最初から強引で、感情的で、人の話も聞き入れなくて、ファーストキスも無理矢理奪っていった蒼……何て失礼な人間だ、くらいにしか由利亜は彼のことを思っていなかった。
 それなのに、泣いてる由利亜を見れば真摯に謝って、慰めてくれて……そして、思い切り泣いて良いと言ってくれた蒼。ずっと独りぼっちでがんばって、無理矢理にでも立ち続けてきた由利亜に、彼は寄りかかるための胸をそっと貸してくれた。
『もう独りじゃないよ』
 そんな風に語りかける様、蒼は寄りかかった由利亜を優しく抱き留めてくれた。
 思えば、あの頃から、由利亜の中での蒼が変化し始めたのかもしれない。
 そんな時に深知留と出会って、今まで見たこともないような蒼の姿を見て、由利亜は初めて複雑でどす黒い気持ちを味わったのだ。
 それでも、その時はまだ良かったのかもしれない。
 その後、レストランで一緒に食事をした日、初めて蒼の意外な一面を見た由利亜。
 あれから急激に由利亜は蒼のことを知るようになった。否……知りたいと、思うようになったのだ。
 蒼が何が好きとか嫌いとか、どんな時に笑ってどんな時に怒るとか、些細なことではあったが徐々に由利亜は彼を知っていった。知ることが楽しくて仕方がなくて、そんな気持ちは彼女にとって初めてのことだった。
 由利亜の中の蒼はそうやって徐々に徐々に大きくなっていったのだ。本人も気づかないうちに確実に。
 蒼が優しくしてくれるだけ、蒼が笑ってくれるだけ、蒼が「由利亜」と呼んでくれるだけ……蒼の存在は由利亜の中で成長し、そして気づいた時には『特別』になっていた。
 その『特別』な蒼が、今日、深知留の『特別』であるのだと聞かされた瞬間、由利亜の中で何かが弾け飛んだのだ。
 複雑でどす黒い感情が止めようもないほど一気に増幅し、引き裂かれるような苦しみと痛みがいっぺんに由利亜の胸を襲い……その時その瞬間は何が起こったのか由利亜自身にも分からなかった。
 そんな感情、名前も知らなければ経験したこともない由利亜は、気持ちのやり場を見失ってしまった。その末に、深知留にあんな八つ当たりをしてしまったのだ。
「あのね、由利亜」
 しばらく続いた沈黙を静かに破ったのは京だった。
「本当はわたし、由利亜にとって蒼さんが特別だ、ってことに少し前から気づいてたんだ」
 由利亜はわずかに顔を上げる。
 京はそれにニコリと笑い返した。
「だってここ最近の由利亜、毎日楽しそうだったでしょう? 特に蒼さんの話をする由利亜は中でも一番楽しそうで輝いてた。それに可愛かった。……小さい時からずっと一緒にいて、初めて見る由利亜だったよ」
 蒼と出会ったばかりの頃の由利亜は、まだ警戒心たっぷりで表情も硬くどこか怯えていた。不安そうな顔もよくしていた。
 それも当たり前と言えば当たり前。ある日突然人生全てを狂わされる様なそんな事態に直面し、不安になるなという方が無理なのだから。
 それがいつの間にか、由利亜の緊張が和らぎ始めたのだ。そうこうするうちに今度は笑顔を見せ始めた彼女。やがて、気づいた時には『蒼さん、蒼さん』と嬉しそうに連呼するようになっていた。
「楽しかった……よ」
 由利亜は呟くように言った。
「楽しかったの……毎日。一緒にご飯食べたり、映画見たり、音楽聞いたり、喋ったり……蒼さんと一緒で楽しかった」
 由利亜はここ数日の生活を思い返すように話し始めた。
「大したことをしている訳じゃないのに、蒼さんと一緒に笑って、一緒に感動して……そんな些細なことが楽しくて嬉しくてしかたがなかったの。それが……わたしの中ではいつの間にか毎日続く当たり前で、今日も明日もその次も……ずっとずっと続くってどこかで信じてた。だけど……」
 由利亜は不意に言葉を切った。
――蒼ノ彼女ハ深知留
 つい先ほどまで幾度と無く由利亜の頭の中で繰り返されていたフレーズが、再び蘇る。
 京は言葉の先を急かすことなく、ただ黙って続きを待つ。
 由利亜は一度、唇を噛み締める。
「だけど……そんな蒼さんが全部、本当は深知留さんのものなんだ、って分かったから……。わたし……わたし深知留さんに嫉妬したの。なんだか寂しくて……どうしようもなくて、わたし……」
 名前も知らず、経験もしたことがなかった複雑でどす黒い感情、胸を引き裂かれるような痛みと苦しみ――それは他の何でもない由利亜の『嫉妬』だった。深知留に対する、止めようもない嫉妬心。
 言葉の最後をくぐもった声で絞り出した由利亜の背を、京は優しく撫でてやる。
 そのまましばらく、由利亜はむせび泣いた。それをじっと待つ京に申し訳ないと思うのか、時折「ごめんね……」と言いながら、それでも由利亜の涙は止まらない。京はそれを気にするなとでも言うかの様に、ただ由利亜の震える背を撫で続けてやった。
 やがて、その涙が引いてきた頃、京はゆっくりと話し始めた。
「今更かもしれないけどね……わたし、本当はこのままうまくいって、そのうち由利亜が自然と蒼さんのこと好きだって気づいて、蒼さんも由利亜を好いてくれて……そうなればいいな、ってどこかで思ってた。出会いは最悪だったかもしれないけど、それでもお互いに好き合えたならいいのにって思ってた」
 京は一度話を止めて、由利亜の瞳に残る涙をそっと拭ってやる。
 最初は、由利亜と蒼が結婚するなんて、京は大反対だった。家のため、華宮グループのため、遺言のため……そんなことのために親友の人生を台無しにされてたまるかと、怒りさえ込み上げた。
 それでも、時間が経つに連れ、だんだんと蒼との距離を縮め始めた由利亜に、京は心のどこかで幸せな未来を見るようになっていたのだ。
 そんな漫画のような話、馬鹿馬鹿しいと、いつもの京なら笑い飛ばすところだった。それでも、由利亜を見ていたら、そんな恋物語があっても良いんじゃないかと思ってしまったのだ。
 だけど、現実はそんなにうまくは行ってくれない。
「京ぉ……わたし……わたし蒼さんが好きなの。深知留さんがいるって分かってる……もうダメだって分かってる……でも好きだって気づいちゃったの」
「辛い……辛いよね、由利亜」
「……こんな風になるなら、好きになんて……ならなきゃよかった。気づかなければよかった…………わたし、どうしたらいい?」
 京は力一杯自分にしがみつく由利亜の背にギュッと力を込めた。