由利亜は大きく一つ息を吸い、心を決めるようにして重厚な作りの玄関扉をゆっくりと開いた。
「由利亜様!!」
 扉が開き終えるよりも早く叫ぶように名を呼んだのは藤乃だった。
「藤乃さん……ただいま戻りました」
「今まで……今までどちらにいらっしゃったんです!?」
 藤乃は由利亜の元へと駆け寄った。
「すみません。友達と会っていて……少し遅くなってしまいました」
「随分……お探ししたんですよ。雨も降ってきましたし、心配になって……」
 藤乃に言われて由利亜が当たりを見回すと、エントランスには彼女の姿を見て安堵の表情を浮かべた氷室と竜臣、それに数名のメイドの姿が見えた。
「連絡もせず、ごめんなさい。……以後気をつけます」
 なんだか申し訳なさでいっぱいになった由利亜は彼らに一礼した。
「それで、由利亜様。蒼様にはお会いになりました?」
「蒼さんに……?」
 聞きながら、由利亜は首を横に振った。
「そうですか……。由利亜様、今日は蒼様の大学に行かれましたか?」
「えぇ……夕方少し。でも、会ってはいません。蒼さん忙しかったみたいで……」
 由利亜は小さな嘘を吐き、藤乃から視線を外した。
「実は蒼様が夕方一度戻られて、由利亜様を捜して欲しい、と仰ったんです。大学に来ていたようだけど見当たらないから、と。電話をしてもつながらないし、メールをしても返ってこないと随分心配しておいででした」
(蒼さん……わたしのこと、探してくれたんだ……)
 そうは思うが、恐らく深知留に言われたのだろうと由利亜はすぐに思い直す。
 由利亜は徐に鞄の中から携帯電話を取り出す。
 京と会ってから後、ずっと落としていた電源を入れると次から次へとメールが受信された。すぐにメールボックスを開いてみると、案の定そこには蒼の名前が連なっている。
 それは蒼が懸命に由利亜を探したことを伝えていた。
『今、どこにいる?』
『迎えに行くから、連絡して欲しい』
『心配して待ってる……』
 どのメールの文章も短かったが、そんな言葉が何度も何度も綴られている。
(何で……わたしの心配なんてするのよ。何やってる、って……いつもみたいに怒ればいいのに)
 まだ完全に冷静にはなりきれていない由利亜の中で、不意に自虐的な思考が出てきた。
 由利亜は一番新しいメールを開く。
 それは他より少しだけ長い文面で、
『待ち合わせの場所、ロータスロイヤルホテルの噴水前で待ってる。由利亜が来るまでずっと待ってるから』
 最後にはそう書かれていた。
 メールの受信時間を確認すれば、それは六時二十三分という時刻。
 腕時計を見ると現在は午後九時をちょうど差したところだ。
(二時間以上前……もう、待ってるわけないよね)
 由利亜は携帯電話の画面から顔を上げ、不意に今自分が入ってきた玄関に視線をやった。
 ザァァという雨音が耳に響く。
(でも……もし……待っていたら?)
 由利亜の中で突然そんな疑問が沸き上がった。
 しかし、すぐに答えは出る。
(待っているわけ無い。……こんなに雨が降ってるんだよ? もう、待ってなんていない)
 由利亜は自分に言い聞かせるようにして、携帯電話をパチリと閉じた。
 その時、少しだけ雨音が強くなった気がした。
 誰も何も話さないこの空間で、雨音だけが辺りを支配する。
(ねぇ……万が一、待っていたら……どうするの? )
 由利亜の中で再び疑問が沸いた。それはある種、期待にも似ている感情だった。
 そして、今度はそう思うのと同時に体が動いていた。
 由利亜は踵を返して玄関の扉に手を掛ける。
 その時だった。
「由利亜様」
 呼んだのは竜臣。
「探しに行かれるのですね? 蒼様を」
 振り返った由利亜に竜臣は静かに尋ねた。
 由利亜はそれにコクリと頷く。
「お供いたします。こんな夜に、しかもこの雨で……お一人では危険ですよ」
 竜臣は優しげに微笑んで、ポケットから出した車のキーを由利亜に見せた。








 竜臣の運転により、二十分もせず由利亜はロータスロイヤルホテルまでたどり着いた。
 ホテルの近くで車を降りた由利亜は、竜臣にはここで待っていて欲しいと頼んだ。
 由利亜は傘を差し、土砂降りの中を目的の噴水まで走って行く。
 途中、ガラス張りにされているホテルのエントランスを見やった。これだけの雨なのだから蒼がエントランスで待っていても不思議はないと思ったが、そこに彼らしき姿は見えなかった。
 やがて噴水が見えてくると、由利亜は夜の淡い照明の中で人影を探した。
 あまりの雨の激しさに視界が悪い。
 いつもは待ち合わせの場所として多くの人がいるが、今日はこの雨のせいか全くと言っていいほど人気はない。
 その時、ちょうど時間になったのか由利亜の背丈よりもずっと高い水が噴水から凄い勢いで吹き出した。
 約束の場所――噴水のすぐ前まで来たが、やはり人影は見あたらない。
(やっぱり……待ってるわけ無いよね)
 由利亜が肩を落として小さくため息を吐き、元来た道を戻ろうとした時だった。
 再び時間で噴水の水がその勢いを収束し始める。
 そして、それが由利亜の背丈よりも低くなった時……
(――――!?)
 由利亜とちょうど反対側に黒い人影が一つ見えた。
 噴水の縁に腰掛け、俯いている人影。
 傘も差さずに雨に打たれる人影。
「蒼さん!!」
 気づいた時には由利亜は叫ぶようにその名を呼んでいた。
 そのまま傘を投げ出して蒼の元へと駆け寄れば、激しい雨が打ち付ける。
 しかし、もはや由利亜にとってそんなことはどうでも良い。
「蒼さん、何で……何で……!?」
「……由利亜?」
 近づいた人の気配に蒼はゆっくりとその視線を持ち上げる。
「良かった……。無事だったんだな」
 びしょ濡れになったその顔が、由利亜の姿を視界に入れてわずかに微笑む。
 そして、蒼はなりふり構わずに由利亜をきつく抱きしめた。
「心配、したんだ。すごく。このまま由利亜がいなくなったら……どうしようかと思った」
 蒼の体は雨に濡れてすっかり冷え切っていた。
 それは、抱きしめられている由利亜の体温が奪われてしまいそうなほどに。
(こんな雨の中……本当にずっと待ってたんだ)
 その事実に嬉しさのようなものを感じる反面、由利亜の心には溢れんばかりのやるせなさも募っていた。
「何で……わたしなんかを……待ったりするんですか!?」
 気が付いた時には、由利亜は抱きしめられた蒼の胸を突き放す様叩いていた。
 そんなことも構わずに、蒼は由利亜を抱きしめる手に力を入れる。
「それはお前が……」
 蒼がそう言葉を紡ごうとした時だった。
「わたしが……わたしが、大事な遺産相続人だから、待つんですか!?」
 由利亜は叫ぶように蒼を遮った。蒼のびしょ濡れになった服の裾をちぎれるほどに握りしめながら。