「傍に……居てあげてください」
 そう言って部屋を出て行こうとした由利亜の腕を、深知留は無言で掴んだ。
 そして、そのまま蒼の部屋へと一緒に入った。
 由利亜と深知留は部屋の中央付近に置かれているソファーに、テーブルを挟んで向き合うように腰掛けている。
 どちらも何も話さぬまま、既に数分が経過した。
 それは、由利亜がだんだんとその場の空気に居たたまれなくなり始めた時だった。
「由利亜ちゃん、聞いて欲しいことがあるの」
 深知留が静かに口を開く。
 瞬間、来た、という思いが由利亜の中に駆け巡る。
 同時に、逃げたいという衝動もこみ上げる。
「あの……深知留さん。お茶でも入れてきます」
 何で自分がそんなことを口走ったのか、由利亜は分からなかった。
 しかし、とにかくその場から逃げるように、時間稼ぎをするようにと由利亜の本能が働いていたのは間違いない。
 だが、深知留はそれを許してはくれなかった。
「すぐ済むからいいのよ。だから、聞いて」
 深知留は真剣な眼差しで由利亜を見つめていた。
(すぐ済むって……)
(蒼さんはわたしのモノ、だから奪らないで、って言って終わり、って事でしょう……)
 由利亜の中で色濃い諦めが出る。
 もう逃げられない――そんなことは由利亜にだって分かっていた。
 だけど由利亜はその場に立ち上がり、部屋を出て行こうとする。
 逃げられるものなら、逃げてしまいたくて……
 が、
「由利亜ちゃん、逃げないで」
 深知留は今度は少し強く言った。
 由利亜はそれに意を決したように深い溜息を吐く。
 そして、静かに振り返る。
「いいですよ、深知留さん。……何も言われなくても、もう分かっています。わたしは、お二人の邪魔をするようなこともしませんし、数日中には相続放棄もしてここを出て行くつもりです。だからどうか、深知留さんは何の心配も……」
「由利亜ちゃん」
 深知留の落ち着いた声が由利亜を遮った。
 深知留は変わらずに由利亜をジッと見つめている。
 そして続けた。
「だったらわたし、本当に奪るわよ? 蒼のこと」
(今更何を……。初めから深知留さんの恋人じゃない)
 由利亜はその顔をわずかに歪めた。
「蒼をわたしの彼氏にしていいのね?」
 確かめるように言った深知留に、由利亜は堪らずに両手をギュッと握りしめた。
「そんなの……今更、じゃないですか! だって、蒼さんは元から深知留さんの彼氏でしょう!? なのに……なんで今更、そんな意地悪言うんですか!!」
 声を張り上げた由利亜の目にはいつの間にか涙が浮かんでいた。
(涙って……何でどれだけ泣いても枯れないんだろう)
 由利亜は少しばかりの冷静さでそんなことを思う。
 すると深知留はそんな由利亜を見ながら、なぜか突然クスリと笑みを零した。
 そして、その長い黒髪をかき上げるようにゆっくりと耳に掛ける。
「それだけ蒼を思っていてくれるなら、しっかり捕まえてあげて。それが由利亜ちゃんの役目なの」
(…………?)
 由利亜は深知留が何を言いたいのか、理解出来なかった。
「深知留さん、何……言って、るんですか?」
 とぎれとぎれに尋ねる由利亜の元に、立ち上がった深知留が歩み寄る。
「あのね、わたし蒼の恋人なんかじゃないわ。蒼とは正真正銘、単なる幼なじみ。むしろ戦友、かな?」
「…………え?」
 今度こそ、由利亜は深知留が何を言っているのか理解出来なかった。
 流しかけた涙が、驚きという新たな感情で一気に引いていく。
 深知留はそんな由利亜に笑いかけた。
「大学で……変なこと聞かされたんでしょう? ごめんね。でも、アレは全部噂にしか過ぎないから」
「うわ……さ……?」
「そう。というか、真っ赤な嘘。変な心配をかけちゃって本当にごめんなさい」
 深知留は本当にすまなそうに、由利亜に深々と頭を下げた。
 由利亜は今の状況が全く以て理解出来ない。
(……噂? ……嘘? ……何が一体……どうなってるの?)
 パニックを起こし掛けている由利亜を余所に、深知留は話を続ける。
「蒼とは幼稚園の時からの友達で、たまたま気があって今まで仲良くしてきただけなの。でも、男と女ってだけで周囲は変なことを勘ぐって噂を立てる。……わたしも蒼も初めはそんなもの否定していたわ。たけど、だんだん面倒になっちゃって噂が流れているのは知っていたけど放っておいた。まさかそれを、由利亜ちゃんが耳にするとは思わなくて……」
 深知留の言っていることを全て理解するのは、今の由利亜には難しかった。
 それでも、深知留という当事者からの順を追っての説明により、由利亜も今まで自分が思ってきたことが違うようだ、という事くらいは理解し始める。
「あの時、由利亜ちゃんがその噂を耳にしていたこと、知っていたらすぐに否定してたけど……事情がよく掴めなかったから、由利亜ちゃんに何が起こっていたのか分からなかったのよ。気づいてあげられなくて、ごめんなさい」
 由利亜は深知留と大学で出会った時の事を思い出していた。
 男子学生に絡まれていたのを助けてくれた深知留の好意、を無碍にするような行動……
(あれは……深知留さんが謝ることじゃ……)
(……わたしが、わたしが深知留さんに謝らなきゃ……)
「違います……深知留さんは……悪くない、です。あの時はわたしが……あの……その……何も分かってなくて、それで……とにかく! すみませんでした!!」
 考えをまとめるより先に喋りだした由利亜は、思いつく言葉を並べるだけ並べて、その頭を地面につきそうな程下げた。
「まぁ……誤解は解けた、ってことでいい? ……だったら、それでもういいのよ。由利亜ちゃんが謝ることでもないし」
 深知留は再び由利亜に笑いかけてくれる。
「それに、おかげで決心も付いたようだし」
 続けて呟くように言って深知留はベッドで寝息を立てる蒼の事を見やる。
「……決心?」
「ん? 何でもないわ。……だいたいね、由利亜ちゃん。ただでさえそういうことに関して不器用な蒼が、二股なんて掛けられると思う? 恋人がいるのに、由利亜ちゃんとも結婚……そんなの他の人にはできても、あいつには地球がひっくり返っても無理だから」
 深知留はアハハと笑い飛ばした。
 そんな深知留の姿に由利亜も思わずフフッと笑みを零してしまう。
「それでね、由利亜ちゃん」
 深知留は突然その表情を真剣な物へと切り替えた。
「わたし、聞いて欲しいことがあるって言ったでしょう? これ……見て?」
 深知留は鞄の中から薄いブルーの真っ新な封筒を取りだした。
 そして、それを由利亜の手に持たせる。
(…………)
 手に取った瞬間、由利亜の心臓がトクンと一つ脈打った。
「覚えがあるでしょう?」
「これ……この封筒……」
 記憶の中の封筒と手に持っている封筒を合致させて行く。
「小夜子……さん?」
 深知留はそれにゆっくりと頷いた。
「小夜子さんのフルネーム、言えるわよね?」
柚木ゆずき……柚木小夜子さん、です」
「柚木ってね、蒼がここに養子に入る前の苗字なのよ」
 深知留の答えは意外なものだった。
「あの……じゃあ、小夜子さんは……一体……誰なんですか?」
 由利亜はすぐに尋ねたが、深知留が答えることは無かった。
 代わりに、
「……誤解も解けたことだし、わたしの役目はもう終わりじゃない?」
 深知留は突然、由利亜に向けてではなく話し始めた。
「わたしは、氷室さんにあんたのピンチだって泣きつかれて代打で来ただけなのよ。これ以上は代打の役目を超越しちゃうから、あとはもう自分で何とかしてよね。……起きてるんでしょう? 分かってるのよ?」
 深知留が言葉を放った後、それに返事をするような小さなため息が一つ漏れ聞こえた。
「深知留……お前、由利亜を泣かせただろう?」
 ため息の主は静かに言った。