Episode 6

「綺……こっち、見ろ。綺……」
 熱に浮かされる中、聞こえる声に瞼を上げれば、その額に汗を滲ませる千堂の姿が見えた。
 いつも余裕綽々なクセに、なんだかその時は余裕がないようにも見えて、綺音は思わずふにゃりと笑ってしまった。
 そして何だか無性に甘えたくてその手を伸ばせば、千堂が体ごと上から降ってきた。
 心地の良い重みが、綺音を包み込む。
「まだ、余裕だな」
 ワザと無声にした千堂の声が、綺音の耳朶をくすぐる。
 次の瞬間、千堂の体が綺音から離れたかと思うと……
「きゃあっ……!」
 今までより深く責め立てられた綺音は思わず悲鳴を上げる。
「や、あ、待って……お願い……」
 綺音の抑止などものともせず、千堂は奥深くをかき混ぜる。
 二人の結合部から卑猥な水音が漏れる。
「ん……は、や、だめ……はげし……あン……やぁっ……」
 千堂が綺音の足を肩に担ぎ上げれば、繋がりは更に深くなり、綺音はもう嬌声しか言葉をなせなくなる。
「余裕なんか……与えない。余分なことは考えるな……お前を抱いている俺のことだけ、考えろ」
 そんなこと……言われなくても、もうその時の綺音は千堂のことしか考えていなかったし、見えていなかった。
 こんなに翻弄されている状況で、一体、今目の前にいる千堂以外の何を考えろと言うのか、と綺音は意味が分からなかった。
 それから何度も体位を変えられ、角度を変えて責められて……
 千堂はその間も何度も「綺、綺……」と呼びかけてくれた。手を伸ばせば優しく絡め取ってくれる。綺音はまるでそれが恋人同士のようで嬉しくて、切なくて……熱に浮かされながら彼女もまた、智司、と千堂の名を紡いだ。
 たとえそれが一夜限りの恋人ごっこでも、失恋に傷ついた綺音の心は癒やされた。
 その後、何度も達した綺音がだいぶ限界に近づいた頃、それでもまだ千堂は余裕があるようで……
 綺音が縋るように手を伸ばせば、千堂はじゃれるようにそれを絡め取ってくれる。それを、今晩もう何度繰り返したか分からない。
 何度繰り返しても、温かい気持ちが綺音を支配する。
「綺……どうした? もう限界? 綺……」
 そう尋ねる千堂は笑みさえ浮かべて、やはり余裕があるようだ。
 自分ばかり狡い――とその時の綺音は思った。それが教え手の余裕なのか、と。
「智司……」
 綺音は掠れる声でその名を呼ぶと、千堂の首に腕を回して抱きつく。
 そして、その鎖骨に歯を立てた。
「――っ!」
 一瞬、千堂が動揺したのが分かった。
 そんな千堂を見て綺音が、参ったか、としたり顔をするのと、千堂が不敵な笑みを浮かべたのはほぼ同時だった。
「まだ、余裕なんだな」
 その言葉を最後に、綺音の記憶は途切れている。





 で、今に至るというわけだが……
 思い返せば思い返すだけ、綺音は死んでしまいたくなる。
 あの時は考えもしなかった。
 翌朝目覚めたらどうなるかなんて。
 だから困ってる。今非常に困っている。
 そんな風に困ることくらい、ちょっと考えれば分かったはずなのに。夕べの綺音はその考えるためのちょっとの間を取ることも出来ないほど毒されていたのだ。酒と孤独と……そして千堂に。
 綺音は恨めしそうな顔で自らを見下ろしている千堂を見る。
 体勢は未だに押し倒されたまま。
「なんだ? まだ記憶が曖昧なのか?」
「いえ、違います。ただ千堂さんて…………」
 言いかけて綺音は夕べの千堂を思い出していた。
 千堂とひと晩過ごして、一つだけ分かったことがある。
 それは、
「随分遊んでいらっしゃったんですね……」
 ということ。
 綺音だってそんなにセックスの経験がある訳じゃないが、それでも、昨晩のアレは今まで自分が歴代彼氏たちとやってきたそれとは明らかに違うと思った。
 酒に酔っていたからかもしれない――そんな言い訳もきかないほど、千堂のそれは綺音を快楽で狂わせた。
「人聞きが悪いな。俺は恋人以外とは寝ない主義だ。ひと晩限りなんて御免だよ」
「そうですか……。じゃあ、夕べ彼女がいないと毒づいたことは、今ここで謹んで訂正させていただきます」
 押し倒されたまま何となく隣にあるサイドボードへ視線をやっていた綺音は、ひとつ溜息を吐いてその視線を千堂へと戻す。
「ところで千堂さん……ご相談があります」
 綺音は神妙な面持ちでそう言った。千堂はそれに仕草だけで「何だ?」と尋ねる。
 だから、
「無かったことにしましょう」
 綺音はスッパリと言った。
「夕べは誘ったわたしが悪かったです。それは認めます。いい大人の女がすることじゃなかったと、今更ながらに反省しています。もちろん、わたしに非がありますので犯されただの何だの、馬鹿なことは言ったりしません。そもそも誰にも何も言いませんので安心してください」
 こんなことになった今、綺音が最優先事項として案じたのは避妊をしたかどうか、であったが、それは先ほどサイドボードを視界に入れた際に大丈夫だと確信した。そこには某ブツが入っていたと思われるゴミがあったから。実際のブツは使用済みとなってもうゴミ箱だろうが、破られた包装がそこには転がっていたので、使ったことは間違いない。なお、空の包装が複数あったことについては敢えて触れないことにした。それに、計算によればあと数日で月のものが来るはずなのでまず問題はないはずだ。
 だから、あとは今目の前にいる男を納得させれば良いだけだ。
 そもそも、千堂だってそっちの方がいいはずだ。現に先程も彼は言っていた。ひと晩限りなどごめんだと。つまり彼も、今回のことは無かったことにしたいはずだと綺音は信じて止まなかった。
 が、
「やだね」
 千堂から帰ってきたのは予想外の言葉。
「や、やだって……千堂さん、さっきあなただって言ったじゃないですか。ひと晩限りはごめんだって。だったら忘れた方がいいじゃないですか!」
「綺、俺の言ったこと、意味が分からないのか?」
 思わず声を荒げる綺音に、千堂は呆れるように肩を竦めてみせる。
「分かってるから言ってるんじゃないですか!」
「分かってないだろ。俺言ったよな? 恋人以外とは寝ないって」
「だから……」
 言いかけて、綺音は止めた。
 彼女の頭の中では思考が展開されていく。
 恋人以外とは寝ない主義でひと晩限りは御免――しかし、千堂は綺音と寝た。それは否定できない事実で……
(それってつまり……わたしは千堂さんの…………)
 綺音の顔色は明らかに悪くなる。
「やっと理解したか?」
「い、いいいつそんなことになったんですか!? わたし聞いてません。知りません。千堂さんの恋人になった覚えはございません!!」
「夕べ。綺の寝顔見ながら俺が決めた」
「き、決めたって……そんな勝手な」
「勝手で結構。俺は自分の恋人を決めるのに人には相談しない主義だ」
(せめて相手の同意は得てください!)
 千堂のあまりに自分勝手な発言に、綺音は心の中で大きくツッコミながらあからさまに溜息を吐く。
「……だいたい、なんでわたしなんか! いつも意地悪してるじゃないですか」
「なんでと思う?」
「そんなの……知りませんよぅ…………」
 一通りのやりとりを終えた綺音は息を荒げながらも、現在進行形で起こりうる事態に泣きそうな顔を見せていた。
 そんな綺音の表情を堪能しながら、千堂は彼女の額に掛かる髪をそっとかき分ける。
 そして、
「可愛いから」
 千堂はクスリと笑みを零しながら言った。
「…………」
 瞬間、綺音は言葉も動きも奪われる。
 もう不意打ちなんてもんじゃない。
“可愛い”
 これまでの人生、数える程しか言われたことのないその言葉に、もちろん綺音が免疫など持っているはずもなく。
 そしてそれを言葉に出すのは、性格はさておき甘いマスクのいい男……
 綺音は恥ずかしいやら嬉しいやらで複雑な表情を見せながらその頬を染める。
 が、
「なんて……本気にするなよ。バーカ」
 続いて聞こえたその声に、綺音の顔は一瞬にして悲壮感に溢れる。
 それを面白そうに見ながら千堂はクツクツと笑みを零す。
「面白いからに決まってるだろう? お前のこと、日常生活で苛めるのも面白いけど、ベッドの中で苛める方がもっと面白いってことがよく分かったからだ」
 その時の千堂の顔――それは綺音もよく知っている、よからぬことを告げる笑み。それに反応するように、綺音の脳内には警鐘が鳴り響く。
「別に失恋したんだから大きな問題はないだろう。夕べ、俺に抱かれながら散々縋ってきたしな。それに……お前言ったじゃないか。俺のこと苦手だけど嫌いじゃないって」
「だからそれはあくまで仕事上のお話です!」
「嫌いじゃなければそのうち情が沸いて嫌でも好きになる……人間そんなもんだ」
「なりません。絶対なりません! わたしの好みは優しい人で、千堂さんみたくいじめっ子は嫌なんです!!」
 綺音は先ほどからやたら近付いてくる千堂を必死で押し返す。
 しかし、千堂はそんなことなどお構いなしで。
「なぁ、綺……名前、違うってさっき教えたよな? 今後、会社以外で“千堂さん”て呼んだら……分かってるよな? 綺」
 綺音の鎖骨をカプリと甘噛みした千堂に、
「ひぃっ……ごめんなさいぃ……」
 綺音はまるで条件反射のように悲痛な謝罪をその唇から漏らした。

 松本綺音、本日この時を持ちまして、彼氏が出来た模様です。
 それは、夢に描いた優しい素敵な人……ではなく、恐ろしいいじめっ子。
 彼の意地悪……いえ、彼氏の意地悪、そんな苦難に綺音は耐えきれるのでしょうか?


No.6